第76回カンヌ国際映画祭報告(4)カトリーヌ・ブレイヤ『L'Été dernière』ーー欲望の純粋さ
槻舘南菜子
[ cinema ]
道徳的な芸術は、人間を醜くし、萎縮させます。しかしながら、芸術が道徳的であるとすれば、人間を飾り立て、華やがせ、そして、変容させるようなやり方で見つめるからなのです。カトリーヌ・ブレイヤ
カトリーヌ・ブレイヤ『L'Été dernière』は、長年、映画制作から離れていた彼女のカムバックとなる作品だ。イザベル・ユペールを主演に迎えた『Abus de faiblesse』(2013) では、脳出血後における半身の麻痺が自身の身体と乖離し、そのことで抱く孤独を半自伝的に描いた。それ以来10年ぶりの新作であり、これまで数々の巨匠(ブライアン・デ・パルマ『パッション』、ポール・バーホーベン『エル ELLE』『ベネデッタ』)を蘇らせてきたプロデューサー、サイード・ベン・サイードとの初めてのタッグで、『最後の愛人』(2007)から久々のカンヌ公式コンペティション入りを果たした。ブレイヤは、処女作『本当に若い娘 Une vraie jeune fille』(1976) から、一貫してセクシュアリティを主題にしてきた作家である。だが、女性は男性にとっての消費の対象としてではなく、欲望それ自体のあり方を探求してきたとも言えるだろう。『L'Été dernière』はデンマーク映画、マイ・エル=トーキー監督『罪と女王』(2019)のリメイクだが、ファーストシーンからその様相はまったく異なる。それはレア・ドリュッケール演じる主人公の弁護士、アンヌから詰問されるレイプされた少女のクローズアップから始まるからだ。涙、鼻水、涎にまみれたその彼女の顔とは、さらにもう一度、物語の最後に遭遇することになる。アンヌが義理の息子ピエールと関係を持ったことが引き金になるのだが、夫婦関係を持っているがゆえに、彼女のキャリアが危機に陥るというのが物語の筋書きではある。しかし、この作品において重要なのはその過程ではなく、彼女の欲望がいかに突如として生起し、それがどのようにアンヌを変容させていくかということだろう。決して大人と思春期の若者の葛藤という構造に回収されることはない。彼女は失われた青春期をトマを介して取り戻していく。カメラは、アンヌとトマに近づいていく。その接近は、あらゆる社会的背景や文脈、年齢、善悪さえも掻き消し、カメラの前に二人だけの世界が立ち現れる。お互いの吐息以外、もはや何も聞こえることはない。ブレイヤにとって感情とは顔であり、ほとんど身体の他の部分へ注視していないようにさえ見える。感情でありエクスタシー全てが顔に集中し、フレームの外にまでそれらが溢れ出していく。その唐突さも、相反する感情も矛盾も、すべてを信じさせてくれる。「愛とは煙草のようなもの、吸っては捨て...」、狂気の愛の終わりに奏でられるレオ・フェレの「二十歳」が、この作品を包み込んでいく。愛の終わりは破滅ではない。一時的な感情の苦しみから、人はまた立ち直り、そこから再びすべてをやり直すことができる。一度は映画から遠のいた、カトリーヌ・ブレイヤの帰還。それは75歳の彼女が到達した驚くべき瑞々しさであり、若さにほかならない。その帰還を心から祝福したい。
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