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May 31, 2023

カンヌ国際映画祭報告(5)すべては「単純さ」へ
槻舘南菜子

[ cinema ]

2023_CANNES_SIGNATURES_WEB_1584x396_01_LINKEDIN.jpg 第76回カンヌ国際映画祭が5月28日に閉幕した。審査員長を務めたのは、昨年『逆転のトライアングル』(2022)で2回目のパルムドールを受賞したスウェーデンのルーベン・オストルンドであった。ジョナサン・グレイザーはグランプリ受賞作品の『The Zone of Interest』によって、アウシュビッツをコンセプチュアルで奇怪に再解釈し、ビジュアルと音楽が与える分かりやすい衝撃を通して審査委員長の心を鷲掴みにすることは予想できたが、他の審査結果は凡庸なものであった。

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ジョナサン・グレイザー『The Zone of Interest』

 ジェーン・カンピオンの『ピアノレッスン』(1993)、ジュリア・デュクルノーの『チタン』(2021)に続き、歴代3人目の女性監督としてパルムドールを受賞したのは、ジュスティン・トリエ『Anatomie d'une chute』だった。トリエは、初長編『ソルフェリーノの戦い』(2013)でカンヌの併行部門の一つ「L'ACID」にノミネートされて以来、『ヴィクトリア』(2016)は批評家週間の開幕上映作品、『愛欲のセラピー(原題 : Sibyl)』(2019)は公式コンペティション部門と、確実にカンヌでキャリアを重ねてきた。女性のキャリアと私生活を主題にしたコメディタッチの初長編&二作目から、『愛欲のセラピー』では、執筆を巡っての実人生の混沌へシリアスに転換させ、『Anatomie d'une chute』に繋がる創作の問題を扱い、自身のキャリアと主題を段階的に発展させてきたと言える。新作では盲目の息子、それから夫のサミュエルと人里離れた山中で生活する主人公サンドラが、夫への殺人嫌疑をかけられることで、法廷が舞台の中心となる。裁判が進行する中で、彼女のさまざまな側面が次々に明らかになっていく。小説家としての創作の問題、教鞭をとりながら小説を書く夫の妻への強烈な嫉妬からくる家庭内暴力、彼女自身のセクシュアリティの秘密。それらは次々と言葉とフラッシュバックで説明されていくのだが、どの主題もほとんど掘り下げられておらず、物語の流れの中にある一つの「事実」として点在するだけに留まってしまっている。まったく決定的な瞬間、解釈は生まれることなく、最終的に彼女の無実を証明する鍵は、辻褄合わせに用意され、忘却されていた事実に収斂されるのだ。作品全体を通じて特徴的な演出はほとんどなく、一人の登場人物の複合的なパーソナリティに帰するだけの単純極まりない説話構造のようにさえ思えてしまった。

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ジュスティン・トリエ『Anatomie d'une chute』

また、監督賞を受賞したアキ・カウリスマキ『Les Feuilles mortes』は初期作品への回帰が見えるものの、主演俳優の二人はカウリスマキ映画の世界の住人としてはあまりにも存在感が薄く見えてしまった。無難な自己模倣に留まっており、説明的なラストシーンを見れば、この作品が彼のフィルモグラフィの更新に寄与していないことは明瞭だろう。ヌリ・ビルゲ・ジェイランもまた、彼独特の永遠に続くような対話の後、最後に主人公の独白によってもう一度物語を説明することで、ある種の愚行を犯してしまっている。 今年の受賞結果は、二項対立や葛藤といった単純な構造では回収できない複雑さを持った作品は忌避され、単純な分かりやすさに向かっているように見える。イタリアという国の宗教との混沌極まりない関係性をダイナミックな演出で描いたマルコ・ベロッキオ『Rapito』や、寓話的な世界観のもと絡み合う糸を解いていくような複層的な物語と演出の構造を持つ、美しい宝石のようなアリーチェ・ロルヴァケル『Le Chimera』が無冠なのはそうした理由にある。

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アリーチェ・ロルヴァケル『Le Chimera』

 だがそもそも、審査委員長のオストルンドは凡庸極まりない分かりやすい権力構造の逆転のフレームに留まりつつ、その枠の中で糞や嘔吐物をばら撒けば過激であり、衝撃を生むと思っている愚盲である。そもそも彼は、既存の構造自体の破壊や逸脱などからは遠く離れ、安全な場所で自己愛を爆発させている保守的な監督だ。ワン・ビン『青春(Jeunesse) 』から読み取れる有色人種の貧困問題は、若者たちの日々の生活の眩さにかき消されてしまい、審査員たちにとって理解可能なひとつの像を結ぶことがなかったことは容易に想像できる。ラディカルさは複層的に見えたものの、彼らにとっての理解の限界を如実に示したコンペティションの結果であったと言えるだろう。

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