『タブロイド紙が映したドリアン・グレイ』ウルリケ・オッティンガー
結城秀勇
[ cinema ]
2枚の写真がある。1枚は愛を交わすカップル、もう1枚は仲違いするカップル。そのふたつの映像の間にある物語をでっちあげるのが、この映画ではタブロイド紙に代表されるマスコミの役目である。ふたつの映像をつなぐ方法を考えるということは映画の編集に似ていると言えるのかもしれないし、いやいやふたつの映像を映像外の言葉でつなぐなどもってのほかでふたつの映像それ自体が語る言葉に耳を傾けるのが映画なのだなどとも言えるのかもしれないのだが、いずれにしても『タブロイド紙が映したドリアン・グレイ』が持つ形態はそのどちらでもない。ひとつの映像からもうひとつの映像へと出発したはずなのに、そんなことをすっかり忘れてしまうまで延々と迂回に次ぐ迂回が続く中で、ああこっちが実は本題だったのかと思ってしばらくたった頃、最後にあっけないほどにしかし怒涛の如く「もうひとつの映像」たちが登場して、そりゃそうだよなドリアン・グレイだもんな、となる。
自らの歪んだ似姿と対峙するドリアン・グレイというモチーフを持つこの作品を見る前に、密かに期待していたことがある。『アル中女の肖像』『フリーク・オルランド』でたびたび出てくる、ガラスあるいは鏡ごしに映し出される人物の像に液体がかけられるイメージが非常に印象的でありながらも、作品内でどのような役割を持つのかうまく論じることができず、三部作の最後を飾る『タブロイド紙が〜』を見れば少しは理解が深まるかもしれないと思っていたのだ。劇中、世界のタブロイド紙を牛耳るマブゼ博士(デルフィーヌ・セリッグ)が、さらなる爆発的勢力拡大のためにドリアン・グレイ(ヴェルーシュカ・フォン・レーンドルフ)をゴシップ記事の主人公に仕立て上げようとし、作戦名を「鏡作戦」と名付けるとき、おお来るかガラスに液体と思う。しかし、来てる観客と出演者が同じという劇中オペラが延々と続き、さらには作戦にどう機能してるんだ?という地下世界の狂宴がこれまた延々と続く中で、あれ今回はガラスに液体とかはなしなのか......と不安になる。
しかし自宅に戻ったドリアンが鏡を覗き込むとき、求めていた答えを得たとでもいうような気持ちになる。その鏡は表面がボコボコに波打っており、本人とは似ても似つかない歪んだ鏡像しか送り返してこない。それだけではない。アンダマナ(タベア・ブルーメンシャイン)邸を訪ねるドリアンの前に、アンダマナは磨りガラスの向こうの朧げな影として現れる。阿片の陶酔の中でドリアンに呼びかけるアンダマナは、細かいガラスブロックの向こう側のドット絵のような姿として現れる。閉店した深夜のレストランでアンダマナを見つける場面以外では、ガラスの向こうにいる人物の映像を、もはや本人なのかどうかも確信が持てないようなぼんやりとした映像としてしか得ることができない。鏡に映った自分にワインをかけ水を吐き自己愛と自己破壊とに突き進む『アル中女の肖像』や、いつ終わるとも知れない変身と変形を繰り返し続ける『フリーク・オルランド』を経て、マスメディアとの戦いを描く『タブロイド紙が映したドリアン・グレイ』では自らの姿や愛する者の姿を「鏡を通してぼんやりと」(コリント人への手紙)見ることしかできないのだ。
マブゼ博士のアジトの資料室に、はるか昔に引退した3人のジャーナリズムの精神「独立性」「超党性」「客観性」が素っ裸で幽閉されているのにはクスリと笑ってしまったが、ほっておいてもどうせすぐ死ぬのだからと彼らが放置されるのを見るともはや笑えない。結局のところ、マブゼ博士率いる悪のマスメディア帝国の支配によって世界が滅んでしまうこともなければ、その逆に悪の帝国を壊滅させることによって世界が救われることもない。映像はなにがあっても生き延びる。『アル中女の肖像』の鏡を突き刺し粉々にするピンヒールのような徹底的な破壊による破局は訪れないが、だからこそ、その道を独りで行くほかない我々には『タブロイド紙が映したドリアン・グレイ』のような作品もまた必要なのだという気がする。