『スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース』ホアキン・ドス・サントス、ケンプ・パワーズ、ジャスティン・K・トンプソン
結城秀勇
[ cinema ]
前作『イントゥ〜』を見た人にはすでにお馴染みの、見てない人も『アクロス〜』を見ている間にすぐお馴染みになる、スパイダーマン(たち)の紋切り型自己紹介でこの映画は幕を開ける。しかし語り手であるグウェンは「すごく違ったふうに」に始めようと言うのであって、彼女が語るのは彼女自身のバックグラウンドではなく、本シリーズの主人公であるマイルズ・モラレスの物語だ。放射能グモに噛まれたり、いろいろ大変なことがあったり、とスパイダーマン自己紹介にはつきもののエピソードが並ぶ中に、彼女は必ず一言付け加える。「そしてそれは彼だけじゃない」。『スパイダーバース:アクロス・ザ・スパイダーバース』という映画について言わなければならないことのほとんどは、彼女のこのナレーションに詰まっていると言ってもいい。とりわけこんなフレーズに。「そして今、彼はひとりきりだ。それは彼だけじゃない」。
前作『イントゥ〜』から一年4ヶ月後の世界、成長期で肩幅も広がり手足も伸びたマイルズは、より痩せっぽちの少年ヒーロー味が増している。しかし彼の見た目が変わるということは、彼を作り出す製作上の技法も変化しているということでもあり、と言っても前作を見直したりもしてないので細々となにが変わったのかを語ることはできないのだが、例えばこんなことなら言える。『イントゥ〜』の、モノクロだったり二次元だったりブタだったりする「違った」スパイダーマンたちの中では、謎の美少女転校生役を演じられるくらいには似通っていたはずのグウェンとマイルズだが、『アクロス〜』冒頭のグウェンパートにおける、刷毛で上から下に垂直に塗り潰された背景を見ると、彼女の住む世界はインクのドットとスプレーの飛沫でつくられるマイルズの世界とはこんなにも違ったのか、と思わされる。
そしてそんなにも違っているからこそ生まれる彼らの「同じ」だという感覚こそが、この映画に「エモIQ」の高い場面をもたらす。上下逆さになった夕暮れのニューヨークを前に、ピーター・パーカー=スパイダーマンと彼に思いを寄せる「グウェン」という名の少女は決して幸せな結末を迎えることはない、というグウェンなりの「カノン」を聞かされたマイルズが「でもなんにだって"初めて"ってことがあるさ」と答えるとき、ポスンという頼りなげな音とともにマイルズの肩に預けられるグウェンの肩は、人種や家柄や宗教やその他もろもろの「運命」に引き裂かれた歴史上の数多のカップルたちの影を引き連れて、エモい。
でも上に引いたようにマイルズが「ひとりきり」なのは、本当は彼が他の人たちと違うからではない。「それは彼だけじゃない」からなのだ。もちろん物語上は、彼がアノマリーのオリジンであるとかなんとかかんとか言われるわけだが、登場人物の割合が非スパイダーマンよりスパイダーマンのほうが圧倒的に多い(数百人単位な)本作において、彼は自分によく似た人たちの中でこそ、孤独なのだ。我々と同じように。
おそらくそのことが、「カノン」的には孤児の少年スーパーヒーローたるスパイダーマンものの末端に連なるはずの本作において、これほど大人たちの物語であるスパイダーマンは見たことがない、と思わせるのである。もちろんこれまでだって大人(というか擬似「父」)はスパイダーマンの誕生に欠かせない要素ではあった。ベンおじさんが死ななければ誰もスパイダーマンにはなれない。でも『アクロス〜』の大人たちは、そうした「カノン」的な役割を越えて、スーパーヒーローである少年と共に成長しようとする。「カノン」的な「母性」の役割を完全に越えたひとりの人間としての器量を見せるマイルズの母リオ、子育ての難しさに悩みながらも子供と共に成長しようとするマイルズの父ジェフとグウェンの父ジョージ、自らの過ちをマイルズが繰り返すことを絶対に許さないミゲル・オハラ、そして新米パパとメンターとしての立場を揺れ動きながらマイルズを見守るピーター・B・パーカー。彼らは変えることのできないものを認める知性と、変えることのできるものを変える勇気を持とうと心がけているように見える。もちろん両者の境目は誰が見ても明らかというわけにはいかないので、それでも人とつながることは簡単ではないのだが。
かつて『USムービー・ホットサンド 2010年代アメリカ映画ガイド』に書いたことでもあるのだが、本作のプロデューサーであるロード&ミラーはその監督作品製作作品で、ずっとつながらないものをつなげようとしてきた。監督デビュー作『くもりときどきミートボール』のタイトルであっさりと天気と食い物をつなげてみせて以降、警官と学生やレゴのジョイントやTVシリーズだと思ったらただのよくできたホームムービーだったものなんかを次々とつなげてきた(そしてそこが「つながらない」わけじゃないことをその文章に書いた)。
では本作『アクロス〜』で彼らがつなげようとしているのはなにか。もちろんひとつには、これまで書いたように「よく似た人たちの中でそれでも孤独な私たち」なのは間違いない。「ひとりきり」なのは「私だけじゃない」私たちをつなげるために、既存の「バンド」じゃあものたりない、なら自分で「バンド」をつくっちゃえ、とは誰もが胸が熱くなるラストである。
しかしそれだけでは本作を語るのにどうも片手落ちのような気がするのだ。本作の終盤、ピーター・B・パーカーは、自分がマイルズにした仕打ちへの後悔を幼い娘の子育てへの不安に重ねて、弱音を吐く。そのとき妻であるMJは、子育てに教科書はないのだから「ハーフタイムに修正するしかないわ」と励ますのだが、「スポーツに喩えたのよ?あなたナードだったからわかんないかと思って」ととってつけたような誤魔化しが入るこのセリフが、『アクロス〜』と次作『ビヨンド〜』を前後半に喩えたメタ的なギャグなのは疑いようがない。そのときふと思うのだ。シリーズものなのだから、次回倒さなければならないヴィランが顔出し的に登場したってかわまないし、ヒーローが窮地に陥ったまま終わったって別にいいと思う。しかしなぜ『アクロス〜』はこんなにも「終わっていない」感じがするのか。それはまだ「つながらない」ものがつながっていないからじゃないのか。
『ビヨンド〜』が公開されるであろう来年のことを楽しみにしつつも、同時に過去のことも考えてしまう。『イントゥ〜』と『アクロス〜』のちょうど中間に横たわる時間は、ほんの2、3年前のことに過ぎないのに、あんなにみんながマスクをしていた世の中が嘘みたいに思える。別に科学的になにかが正しいと証明されたわけでも、ウィルスの脅威が弱まったわけでもないし、あのとき多くの人が「ひとりきり」で抱えていた不安が解消したわけでもないのに。なんだかあの頃の自分がまだ「ひとりきり」のまま宙ぶらりんで漂っている気がする。そんな「私だけじゃない」私たちと「バンド」を組むことはできないのか。
してみると、最後の「You want in?」というグウェンの呼びかけは、彼女がマイルズの両親と交わしたのと同じように、ひとつの約束である気がする。『ビヨンド〜』を見た観客がいま『アクロス〜』を見る私たちと「つながる」ための約束。一部の報道によると、プロデューサーであるフィル・ロードの過剰な干渉がアニメーターとの軋轢を生んでいて、そのことが『ビヨンド〜』の完成を遅らせるのではないかという話もある。自らの内にできた"穴"、そしてもうひとりの自分と戦わねばならないマイルズの未来には、大きな期待とともに無視できない若干の不安もある(サム・ライミ版『スパイダーマン3』での、ヴェノムに憑依されたブラックスパイダーマンの悲劇を思い出してしまう......)。「スパイダーバース」シリーズの行先は想像よりはるかに過酷なものになるのかもしれない(「トイ・ストーリー」シリーズで育った子供たちのうちの少なくない数が、『トイ・ストーリー4』の自分たちを置き去りにして勝手に生き延びるおもちゃたちに「裏切り」を感じてしまったことも思い出す)。それでもロード&ミラーなら、誰にも思いつかないやり方でハーフタイムで修正して、見事につなげてしまうのかもしれない。ホービーとマイルズのこんなありえない会話みたいに。
ホービー「おれはチームなんて信じない」
マイルズ「バンドやってるんだろ?」
ホービー「おれは一貫性なんて信じない」