『エスター・カーン』アルノー・デプレシャン
結城秀勇
[ cinema ]
波止場の近くの「どこにもつながっていないような」小路、そこにある一軒の家からこの映画は始まるのだが、エスターの父(ラズロ・サボ)が営む仕立て屋の作業場が本当に素晴らしい。幼いエスターを作業台の上に乗せ、型紙を写し取った布を裁断させる。裁断した布を仮縫いしてエスターに着せる。心臓がある側が左なのだと教えられたエスターは、自分の左手首に小さなハートマークを描く。しかし、薄暗くも心地よい空間に思えたその場所は、4人の小さな子供の身体がすっかり成長してしまった後では、あまりにも手狭なのだ。
だから、女優になるためにその家を飛び出したエスター・カーン(サマー・フェニックス)が彼女の演劇の初めての師であるネイサン(イアン・ホルム)に、「わたしは小さくてからっぽだから、観客にはなにも見えない」と不安を漏らすとき、彼女がいまここにいるのは彼女が大きくなりすぎたからではないのかと思ってしまう。彼女とともに大きくなってしまった姉兄たちの身体が、彼らが流暢に操り家の中に満ち溢れるがエスターは持て余してしまう言葉の響きが、彼女が恐れていた「外」へと彼女を押し出したのではないのかと。
だがエスターの言う小ささは、漠然とした他者との比較などではない。稽古場である舞台の客席から、舞台にいるべき彼女の大きさを彼女自身の指で測った極めて具体的な小ささなのであり、役者という存在が持つ誰にも否定することのできない根源的な小ささでもある。と同時に、彼女の言う小ささは、彼女の家族が住む小さな家に止まり続けるためには少しだけ余分な大きさでもある。
彼女の小ささと大きさは、ネイサンの語る嘘と真実の話にどこか似ている。君が舞台で嘘をつくなら、観客はそんなものを見に来ない。信じることができないからだ。かといって君が馬鹿正直にありのままを話すなら、やはり観客は見に来ない。そんなものを信じる必要がないからだ。そして君は、嘘と真実のどちらを選ぶ?
母親に「人の真似をして魂を盗む猿」と評され、父親に「牛の目をしたアテナ」と評され、初めての恋人に「機械」と評された少女は、演じることを通じて人間として生きることを学ぶ。そんなふうにこの映画のあらすじをまとめてしまうとしたら、そこにはネイサンの嘘と真実の二者択一にも似た欺瞞が潜む。エスターは人ではないものから演技によって人になるというよりも、「どこにもつながっていないような」小路のあの家やユダヤ人の社会から自らの意思によって「孤児」となり、演技というものの「養子」になるとでも言ったほうがふさわしいことを、この作品以降のデプレシャンの作品を見た私たちは知っている。
顔面を殴打する苦痛、ガラスを噛み砕く苦痛、そしてそれらすべてを遥かに凌駕する「すべてがわたしの中に入ってきてわたしを引き裂く」苦痛。そうしたものを通じてなにかに達するエスター・カーンは、ストイックな苦行僧のようなのだろうか?いや、まったくの真逆なのだ。彼女は、「自然で必要な」唯一の快楽を満足させることによって幸福を探求する( アルノー・デプレシャンによるジャン・ドゥーシェ追悼)。
東京日仏学院「第5回映画批評月間 スペシャルエディション アルノー・デプレシャンとともに」にて上映