『春に散る』瀬々敬久
山田剛志
[ cinema ]
渾身の力を込めて放ったパンチが空を切る。と同時に、雷に撃たれたような衝撃が意識を揺さぶり、目を覚ますと天井が見える。対戦相手を捉えたはずの拳が、意識の外から到来する一撃として自身の身体を貫く。カウンターパンチを受けたボクサーが膝から崩れ落ちる寸前に思い描くのは、そんな出鱈目なイメージかもしれない。
難病を患う初老の元ボクサー・佐藤浩市と理不尽な判定負けで日本タイトルを逃し、闘う気力を失った若きボクサー・横浜流星。それぞれの右の拳が交差することで幕を開ける『春に散る』は、交差する拳の運動を作劇と演出の核に据えることで、映画に太い幹を通すことに成功している。実際のボクシングでは、敵の力を奪うために繰り出されるカウンターパンチだが、本作の冒頭で佐藤が放つそれは、生きる希望を失っていた横浜の目を覚まし、まったく新しい主体に生まれ変わらせるという点で革命的な一撃でもある(「これは運命なんだよ!」)。後の展開でそれは佐藤から横浜に受け継がれ、東洋太平洋チャンピオン・坂東龍汰とのスパーリングではフィニッシュブローとなるが、それ以降、坂東は、従来のアウトボクシングを捨て、より攻撃的なファイトスタイルに変貌することから、パンチフォームのみならず、革命的な性質も佐藤の拳から横浜の拳へ継承されていることがわかる。
ふたつの拳が交差するイメージは、2人の人物がすれ違うイメージに敷衍される。序盤、佐藤の家を訪れた姪・橋本環奈は、彼と喧嘩別れに終わる。帰り際、片岡鶴太郎に励ましの言葉をかけられ、ほんの僅かではあるが足取りに力を取り戻した彼女は、門を出た先で殺気を孕んだ面持ちの横浜とすれ違う。また、終盤、世界チャンピオン・窪田正孝が防衛戦の相手である横浜流星のジムを訪れるシーンでは、窪田は軽やかに横浜の周囲を旋回し、闘う意志を確認すると、車に乗ってその場を去るのだが、カメラはフレームアウトする窪田の車とフレームインする佐藤浩市の車がすれ違う様子を同時に捉える。異なる葛藤を背負ったふたつの人生と異なる質のエモーションが交差するこれらのショットが観る者の心を震わせるのは、本作が描くカウンターパンチの、新しい主体を創出する革命的な力の存在が、すれ違う二人の間を吹き抜ける風として、微かに感知されるからである。
昨年公開されたボクシング映画の傑作『ケイコ、目を澄ませて』では、主人公・ケイコとジムの会長が横並びになり、身振りをシンクロさせるシーンが印象的であった。また、会長がケイコにジムを閉めることを告げるシーンでも、両者の位置関係は横並びであった。一方、本作の横浜流星と佐藤浩市は、基本、向かい合う位置関係にある(インターバルで佐藤は必ず横浜の正面にまわる)。また、地獄の河原ダッシュをクリアした横浜が改めて弟子入りを志願する場面において「世の中、矛盾しているんだよ」と一蹴する佐藤は、言葉のレベルでも横浜にカウンターを合わせ、アンチテーゼを突き付ける存在である。
世界戦を控えた横浜に目の異常が見つかり、試合の中止を主張する佐藤と決行を願う横浜が衝突する一連のシーンでは対立がピークを迎え、「俺には今しかない」という横浜と「君には未来がある」と言う佐藤の主張はすれ違いを続けるが、佐藤の死期が刻々と近づく中、両者の「今」に懸ける思いが一致し、対立は止揚される。しかし、2人の決断はすぐさま山口智子によって「無謀」「単なるエゴ」と否定され、山口のその考えも、エゴを貫き、リング上で見事な花を咲かせてみせた横浜の勇姿によって改められる。2人の決断(試合の決行)は全面的に肯定されたかと思いきや、試合後、横浜の右目のトラブルが深刻化することで、母・坂井真紀によって再び否定される(「あんた知ってたんでしょ」)。しかしながら、突き出された拳に拳を合わせるように、起承転結に収斂しない対立が細かく散りばめられた本作において、カウンターは他者の力を奪うためにあるのではなかった。佐藤浩市の死と横浜の選手引退という否定的契機を端緒だけ描きつつ大胆に省略し、スーツを身にまとった横浜の"再々デビュー"を見届けるラストシーンにおいて、カメラはかつて地獄の訓練に励んだ坂道を見下ろす横浜の力強い背中を捉える。その背中には、人を何度でも生まれ変わらせるカウンターの革命的な力がこだましている。