『イノセント』ルイ・ガレル
安東来
[ cinema ]
ファーストシーンは、男の緊迫した表情とトーンを抑えた声から始まる。画面奥、窓外のぼやけた灯りによる逆光の中、男は拳銃を片手にブツの取引をめぐって脅し文句を並べる。その直後、照明が明転し切り返しで映された受刑者たち=生徒と教師であるシルヴィ(アヌーク・グランベール)が、男=ミシェル(ロシュディ・ゼム)の演技に対する賛辞のコメントを発する瞬間、それが刑務所内の演劇教室で実演されたダイアローグの練習だったことがわかる。このシーンでは、照明や切り返しによって、演技とそうでないものが見分けられる。しかしこれ以降、この映画では、両者をはっきりとは見分けられないことが問題となってくるのだ。
アベル(ルイ・ガレル)は、母シルヴィと結婚し義理の父となったミシェルを受け入れることができない。シルヴィのミシェルに対するどんな愛と信頼の言葉を聞かされても、アベルはミシェルに疑いの目を向ける。まるで彼が更生した演技をしているだけだとでもいうように。しかし一方で、観客の目にはそのアベル自身が探偵っぽい振る舞いを演じているだけのようにも見えるのだ。
やがてミシェルの上着に入っていた拳銃や怪しい密会の情景によって、物語はあらぬ方向へと転がっていき、アベルはミシェルの強盗計画に参加を余儀なくされる。あたかも犯罪行為自体が演技でなければならないとでも言うかのように、その計画には「演技をすること」が盛り込まれる。アベルは友人のクレマンス(ノエミ・メルラン)と陽動のための会話劇を演じることが求められるのだ。いよいよ計画実行の時、その会話劇のシーンは、本作の一番の佳境と言ってよい瞬間を作り出す。アベルとクレマンスは予定通り、陽動の対象である男の目の前の席に向かい合って座り、いざ演技を始めようとするがなかなか上手く始められない。その瞬間、何かを起爆させたかのような叫喚とともにクレマンスの演技は突然始まる。クレマンス、そしてそれを受けたアベルそれぞれの台詞と表情、そしてそれまでの物語の文脈から、そこでは彼らの内面にある実際の感情が語られているように見える。一方で、演じていないように見せなければいけないという状況がそれらを演技として十分に成立させるため、彼らのやり取りは演技とそうでないものの両方に二重に所属することになり、ここでもやはりそれらを見分けることはできない。
しかし、事が収まった後でアベルとクレマンスの二人はお互いに対して、信じられるに足る何かを感じるのだ。そしてまた、一連の強盗劇を演じたアベルとミシェルの関係も変化する。それは嘘が真実になるとか、真実を発見するといったことではない。そもそも一回きりの個人の生において客観的な真実などは存在しない。そこにはあるのは、形のないものや不確かなものが何らかの形になった時にそれを信じられるとか、それが生きてる感じがするとかでしかない。それがどういうわけか、演じることを共有しすることで、その後から訪れるのだ。