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September 20, 2023

『アル中女の肖像』ウルリケ・オッティンガー
浅井美咲

[ cinema ]

 『アル中女の肖像』をはじめとしたウルリケ・オッティンガーによるベルリン三部作は、監督が戦禍の暗い傷跡を未だ残す70年代のベルリンの街並みに魅了され、ベルリンを散策することを作品にするというアイデアから生まれたそうだ。彼女(タベア・ブルーメンシャイン)がただ酒を飲み続ける様子が映される本作において、彼女が次第に酩酊し、意識が混濁し、足取りもおぼつかなくなっていくその姿が、荒廃した街の雰囲気と調和しているように見える一方で、彼女自身がベルリンの街や土地に根差す人々にほとんど興味が無いように見受けられるのは興味深い。
 まず、彼女は映画中盤の歌唱シーン以外は声を発しない。彼女が口パクで話しかけ、会話をしているように見えるのは、主にカートを押した動物園の酔っぱらい女(ルッツェ)くらいであり、ベルリンの酒場を飲み歩きながらも、酒場の店員や街を行き交う人々と交流を持とうとすることはない。さらに終盤にかけては酩酊が酷くなり、動物園の酔っぱらい女ともコミュニケーションが取れなくなってくる。彼女が作品の中でしばしば直視するのは、鏡に映った自分である。例えば、目もろくに開かず、眉間に皺を寄せていかにも二日酔いという様子で目を覚まし、ドア下に差し込まれた新聞に目を通した彼女は、「裕福な外国人女性がカフェ・メーリングで大暴れ」という見出しと共に酔っ払った自分がカフェの窓に向けて水をかけている写真を目にする。何かを叫ぶように大口を開け、険しい顔をする写真の自分と鏡に映る自分とを見比べた彼女は、酒を一口飲み、グラスに残った酒を鏡にぶっかける。また映画終盤、よろけて居合わせた人に介助されながらトイレに入った彼女は、鏡で自分の姿を確認し、猫のように鏡に映る自分を攻撃するような素振りをみせた後、口に含んだ水を鏡に吐く。鏡に液体がかけられることで、そこに映る彼女の像はぼやける。その行為は、彼女が純粋に自分を見たくないが為の行いにも見えるし、キャメラが捉える彼女を観客のまなざしから守るためのようにも見える。しかしいずれにしても、酔っ払い正気を失っていく彼女が目の前に映る自分の姿を肯定できないといった、自己嫌悪が現れているようには考えられないだろうか。
 ただ、映画冒頭のヴォイスオーヴァーにおいて、彼女の飲酒観光は「孤独を崇拝する、自己愛的・厭世的計画」であると語られた。この自己愛とは何なのか。彼女の周辺に度々登場する社会問題(マグダレーナ・モンテツマ)、正確な統計(オルファ・テルミン)、良識(モニカ・フォン・クーべ)は、アルコールの危険性についての言説を饒舌に語るが、何かの引用、何かの二番煎じである彼女たちの言葉はどこか上滑りしていく。対して、ベルリン・テーゲル空港に赴くまでの飛行機の中で酒を飲み続けると自ら決意を固めた彼女は、その通り実行し、酩酊を深め、グラスが割れる音が響くたびに自己破壊を繰り返していく。作中で引用されるリプスキーの文章に「飲酒の利点とは一人でできてしまうことである」とあるが、彼女はベルリンの酒場を飲み歩き、街を闊歩しながらもベルリンには溶け込まず、孤独を深めていくのだ。冒頭で語られた彼女の「自己愛」とは、酩酊に耽ることで外界を突き放し、自己嫌悪の衝動を肯定し、むしろ自分で自分を壊すことを選ぶこと、全てを自分で選び取る姿勢ではないだろうか。『アル中女の肖像』が鮮烈に人の胸を打つのは、自分の意志によって運命を定め、自ら壊れていく彼女があまりにも潔いからだ。

渋谷ユーロスペースにて9月21日(木)まで、大阪シネ・ヌーヴォにて9月29日(金)まで、横浜シネマリンにて9月30日(土)より、他全国順次公開