『バーナデット ママは行方不明』リチャード・リンクレイター
結城秀勇
[ cinema ]
シアトルが雨の多い街であることは有名だが、それにしてもここまでボタボタと重たい雨が降り続くとは。そのせいでバーナデット(ケイト・ブランシェット)の家はいたるところで雨漏りしている......、のかと思いきや、よく見れば別にシアトルの雨でなくとも容易く雨漏りしそうなボロボロのこの家は、壁紙が無惨に剥がれ落ちておどろおどろしいシミをつくっていたり、絨毯の下をブラックベリーの蔦が張っていたりもする。後に、かつて女子修道院として使われていた老朽化した建物を、法規制をかいくぐって改修したとわかるこの家だが、なぜバーナデットと夫と娘の三人家族があえてこうした状態の家に住んでいるかという理由は特に説明もされなかった気もするし、されていたとしても多分どうでもいい。そんなことより重要なのは、彼ら3人の家族は、雨が嫌だとか雨漏りが鬱陶しいといったそぶりも見せずに、内側にタオルを敷いたバケツが床のそこらここらに散らばるこの家で当たり前のように暮らしているということだ。
タオルの敷かれたバケツが置いてあることがごくごく当たり前のことであるように、本作の語り手である娘のビー(エマ・ネルソン、バーナデットだけが彼女を「バジー」と呼ぶ)の母バーナデットへの信頼もまた当たり前のように一瞬たりとも揺らぐことがない。それもナレーションの語り手である声が、ではなく、中学卒業を間近に控えたひとりの少女という役そのものが、母バーナデットと揺るぎない信頼関係で結ばれている。なぜ彼女たちがそんな信頼関係を築き得たのかという理由は、母側の出生時のエピソードを除いては語られることがなく、どのようにその関係が築かれたのかを示すエピソードも回想も一切ない。ただ当然のことのように彼女たちは決してお互いを裏切らず、しかもそれは母と娘だからではない。ビーは父エルジー(ビリー・クラダップ)に言う、「あなたが家を空けていた間、私たちは充実した時間を過ごしたの。彼女は私の親友で、私を置いてどこか別の場所へ行ったりはしない」。この、一般常識でも規範でも理想でもない、ただただあまりに明瞭すぎて理解不能な「当然」だけで、この映画に涙する理由は充分なのだ。
やはり強い雨が降りつける日に、送迎の自動車の中でバーナデットとバジーはカーステから流れるシンディ・ローパーの「Time After Time」をふたりで熱唱する。あのサビの一番最後の繰り返し、シンディが「ア〜イウィルビ〜ウェイティ〜ン」と高音に変化するところで、バーナデットは感極まって涙をこぼす。そして彼女は言う。「人生の陳腐さがつらい。でも誰も気に留めないほど些細なことに、信じられないくらい感動する権利は私にだってある。良くも悪くも」。『バーナデット ママは行方不明』という作品を讃えるのに、そして、普通に映画を見る喜びを表すのに、これ以上の言葉はない。