『マリの話』高野徹
細馬宏通
[ cinema ]
新橋駅そばにあるTCC試写室への道のりはどこか風変わりだ。ビルの入口は手動の片引き戸で、勝手口のようにさりげない。それでいて、下に降りる階段は広く、ちゃんと車椅子用の昇降機がついている。地下に降りると、白くそっけない廊下が思いがけない長さで続いている。まるで狭くて長い地下街を歩いているような気になる。東京の真ん中に、どうしてこんな空間がぽかんと開いているのか。本当にこんなところで映画をかける場所があるのかしら、と思ったあたりでようやく地味な看板が目に入る。
高野徹監督『マリの話』を観た。この映画には、どこかこの奇妙な試写室までの道のりに似た感触がある。どこにも夢の入口が開いており、醒めたと見せて、じつはさらに深い夢に誘われている。
物語は、耳障りな携帯電話のバイブ音で始まる。男がベッドから今起きたばかりなのに、何かを書きつけ出す。眠気の中をもがくようにノートに向かうピエール瀧の身体が、こちらを半睡の世界に招き入れる。
ピエール瀧演じる杉田という男はどうやら映画監督らしい。酒場で出会った女にいきなり、映画に出ませんか、と誘って逃げられるところは、ホン・サンスの『女は男の未来だ』を思わせる。しかし、その後が思いがけない。杉田は海に向かう。海辺には逃げたはずの女がいる。このシークエンス、海を三角に切り取るショット、そしてその女にふらふらと近づいていく杉田のロング・ショットがすばらしい。映画に出ませんか、という問いかけの危うさそのものが、杉田の足取りになっている。
マリという女はいつの間にか、杉田と親しくなっている。その展開が、あまりに杉田に都合が良すぎて、その都合の良さがまた、夢のようで、この夢はどこまで続くのだろうと思う。杉田がベッドの中でもがくところまでだろうか。いや、どうもそうではないらしい。
映画に出ることになったマリは、長い廊下を歩いて試写室にたどりつく。そこでマリが体験する杉田の不在、音声の不調、そして映像と音声の不一致もまた、この世ならぬ場所への隘路に思われる。このあたりから夢の担い手は、杉田からマリに移る。夢は夢に手渡される。
マリはフミコという愛猫を探す女と出会う。このフミコを演じる松田弘子の身体、とりわけ階段を昇り降りする背中の丸め方がもう実に人間にして人間ではない。短い歩幅でいつの間にか彼岸をまたぐように、時空をひょいと移動する。松田弘子の演技は青年団の劇でも映画でも観てきたが、この映画には、彼女の動きの醸し出す時間が、これまでになく鮮やかに収められている。マリを演じる成田結美の身体も、フミコに呼応して、人間というよりは猫らしくなり、二人は、お互いに失った身体を補うように身体を触れあわせる。このシーンもすばらしい。
どうやらマリは、フランスで映画を撮ったらしい。その映画の中で男女が交わすやりとりは、どこかマリとフミコの身体のやりとりを思わせる。そして、ここでも身体と声の関係が、あちこちでずらされ、改まる。松野泉が音響を務める映画はよい映画だと思ってきたが、本作もまた、そのようだ。声が誰かの身体からゆっくりと剥がれ、耳の形となって響き出す。耳という器官そのものをなでる、触覚的な音。「まっしろい女の耳を、つるつるとなでるように月があがった」というのは、『月に吠える』だっけ。
映画は、長い廊下をたどるように声と身体の遊離と官能を綴る。映画を区切って高らかに弾かれるラデッキー行進曲は、固い壁に響き渡るように反響する。試写室を出て、廊下に響くわたしの足音は、耳の輪郭を歩くようだ。
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