« previous | メイン | next »

October 26, 2023

《第36回東京国際映画祭》『パッセージ』アイラ・サックス
池田百花

[ cinema ]

IMG_8233.JPG 映画監督のトマ(フランツ・ロゴフスキ)は、思い通りに動いてくれない俳優に対していら立ちを隠せない。まるで子供のように気まぐれで自己中心的な人物として画面に姿を現わすこの主人公は、作品のタイトルになっているPassagesが持つさまざまな意味を一身に引き受けながら、文字通り物語を駆け巡っていく。
 第一に、この言葉には、通過や通行、短い滞在、さらには移行や変化などの意味がある。まさに物語のはじめから、舞台は、撮影現場からクランクアップの打ち上げの場面にすぐさま切り替わり、そこでトマは、同姓のパートナーのマックス(ベン・ウィショー)が早々と退散してしまうのと入れ替わるようにして、アガタという女性(アデル・エグザルホプロス)に出会う。そしてアガタとふたりきりになった彼は、出会ったばかりの彼女と関係を持つ。そこからトマは、家で待つマックスとアガタとの間を空間的にも心理的にも行き来することになる。
 ジャン・ユスターシュの『ママと娼婦』を彷彿とさせるこの3人の人物をめぐる構図は、アガタがトマとの子供を妊娠したところで(あくまで一時的にだが)大きな変化を迎える。それまでマックスは、アガタとの関係を続けるトマと別れるタイミングを見計らっていたが、ずっと欲しいと思っていた子供を一緒に育てようとトマから言われると、3人で子供を育てる未来を思い描くようになるのだ。ところが、冒頭のパーティーの場面では、すれ違いながらも同じフレームに収まっていた3人は、アガタの妊娠を機に再会することになっても、再び同じフレームに収まることはない。そしてもちろん、夢見られた未来もやってこない。
 果たして物語の最後には、まるで通りと家の間を隔てる扉が存在しないかのようにあらゆる場所を移り渡っていたトマにも、まさしく完全に扉の外に締め出される時がやってくる。マックスと同居していた家から出て行くように言われたトマは、アガタが教えている小学校の教室に押し入って許しを請いに行くのだが、やがて教室の扉の外に締め出され、学校からも追い出されてしまうのだ。
 そういうわけで、最後にもう一度この物語のPassagesというタイトルに目を向けると、それは、子供のような振舞いで人々を振り回してきたトマが受ける制裁としての通過儀礼を表しているようにも思える。しかしそのために人々が背負わされる代償はあまりにも大きい。たとえば、トマと体を重ねるマックスを後ろからとらえたショットで、彼の細い腰に浮かび上がる筋肉の動きは、悲鳴を上げているようにも見える。それから、彼らと壁一枚隔てた部屋でひとり置き去りにされたアガタが、お腹に宿した子供を抱えるようにベッドに縮こまり、その後隣にやってきて平然と眠ろうとするトマの横で涙を流すまでの身振りからは、言葉を一切介さずとも彼女の嘆きが響き渡ってくるようだ。そうした痛みを、何よりも自らの体でもってまざまざと見せつける俳優たちの凄まじさが、まだ後遺症のように脳裏に残っている。