《第36回東京国際映画祭》『野獣のゴスペル』シェロン・ダヨック
板井仁
[ cinema ]
フックで吊るされた豚の腹は切りひらかれて、赤黒い内臓が露わになっている。男たちはレーンに吊るされた豚の死体を、淡々とした流れ作業で次々に処理していく。床にひろがる豚の血を水で洗い流していると、主人公のマテオ(ジャンセン・マグプサオ)は、壁の向こうから聞き馴染みのある声を聞く。それは、父の親友であったベルトおじさん(ロニー・ラザロ)の声である。マテオは、ベルトに一ヶ月前から失踪している父の居場所を訪ねるのだが、ベルトは心配そうな様子で「わからない」といい、洗ってもなお豚の血でうすく色づくマテオの手の中に、無理やり小遣いを握らせるのだった。
バイクに豚の死体を乗せ、それを市場へと運ぶマテオ。次々と展開される市場の賑わいのなかで、切り刻まれ、もはや身体の形跡すら失われて食肉というモノとなってゆく動物たちと、それによって生活を営む人々の姿が映しだされる。映画は冒頭からこのように、殺されるものたちと、それによって生きるものたちの姿を何度も反復して映しだす。家に戻り、熱帯魚の世話をするシーンにおいてもまた、水槽のなかで優雅に泳ぐ熱帯魚の傍らで、この魚たちのために犠牲となるコオロギやワームのショットが挿入される。水槽越しに捉えられたマテオの顔のクロースアップは、生かすものの目的によって、生かされるもの/殺されるものがそのつど恣意的に決定されてゆくことを示唆するだろう。
屠殺場で働きながら妹と弟の面倒を見るマテオの生活は、喧嘩相手のクラスメイトを衝動的に殺してしまうことで一変する。殺人事件が明るみになると、マテオは兄弟を置いて、ベルトを頼って街を離れることを決断する。しかし、ベルトがアジトで数人の部下とともに行っている仕事は、人間を殺害し、その死体を処理するという過酷なものであった。ベルトと仲間たちは、人間を痛めつけ、殺害し、血まみれになった死体から貴金属を取り外すと、それを布で覆い、テープで縛り上げ、川に投げ棄てる。マテオも死体処理を手伝おうとするのだが、恐怖に怯えてうまく行うことができない。ベルトはそんなマテオに対し、殺した男は貧乏人をだまして稼いでいたクズであり、殺されて当然であるという。マテオは、それは正しいことではない、と反論するのだが、それに対して語られるベルトの論理は、豚が人間の生のために屠殺されたり、コオロギやワームが熱帯魚の餌にされてしまったりするマテオが当たり前だと思っていた論理と重ねられる。
映画はここから、アジトでの生活を描いていくのだが、たとえば吊るされた洗濯物から滴る水が、地面に血が混じった水たまりをつくっている、そのようなショットのなかにも、冒頭の屠殺場を想起させるモチーフがあらわれる。人間の殺害が、動物の殺害と重ねられることで、人間への暴力にたいする罪悪感が薄まってゆく。こうしてマテオは組織に順応していき、暴力にもどんどん慣れていく。その変化は反復されるマテオの横顔のクロースアップ、赤く腫れた頬の打撲痕によって示される。
暴力への無感覚は、組織の中で唯一心を許していたグード(ジョン・レンツ・ジャヴィ)が、ボスの金を盗んだ罪で殺されたことによって頂点に達する。映画は、寝ているベルトを銃で撃ち殺し、バイクで逃走するマテオのショットで終わる。マテオはもはや、生きのびるためならば誰かを殺すことも厭わない、組織の論理を体現する存在となった。映画はこうしてわれわれに、「正しい目的」であれば、なにものかを殺すことも許されるのだろうか、という問いを突きつけるだろう。物語だけをたどってゆけば、どこか凡庸な作品であることは否定できない。しかし、それでもこの映画が興味深く感じられたのは、暴力というものが、たんに肉体を直接的に痛めつける行為としてだけであるのではなく、それが行使される場や、その場におけるルールのなかで生起するものであることを、さまざまなバリエーションで反復しながら、仔細に捉えているからである。