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October 29, 2023

《第36回東京国際映画祭》『ミュージック』アンゲラ・シャーネレク
結城秀勇

[ cinema ]

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 あらすじを普通に書こうとすることが、こんなに深掘りというか謎解きみたいに見える映画もそうそうないだろうと思うし、そこはこの映画の良さを語るにあたって別にどうでもいいことだとは思うだが、しかし他に書きようもないので仕方なく少し書くことにする。
 なんらかの事故あるいは事件によって、生後まもなく育ての親の元に送られそこで成長したヨン(アリオシャ・シュナイダー)は、(実は実の父である)ルシアン(セオドア・ヴラカス)にレイプされそうになり、拒否するはずみに(父であるとも知らずに)彼を殺してしまう。そして入れられた刑務所(?)の看守(?)であるイロ(アガト・ボニツェール)と親しい仲となり、彼女との間に子供を持つ。しかし彼女はヨンが殺したルシアンの元恋人であり、ヨンは彼女の息子であった。ある日、イロはそのことに気づいてしまう。
 間違っていることも多々あるかもしれないがだいだいそんな話だ。要するにオイディプスの物語である。しかし自分で書いていてもなにを書いているんだろうと思うくらいの内容だし、それこそがあのオイディプスの物語を現代において映像化しようとすることの困難さそのものだろう。しかし『ミュージック』において重要なのは語られる物語の内容よりも、それを可能にしている手法の方だ。カットの変わり目で平然と時間も空間もすっとぶシャーネレクの作家性が、『はかな(儚)き道』で世代単位の跳躍を見せるようになったことと、『ミュージック』のつくりは無関係ではない。ナレーションもインタータイトルも黒みすらも、そして役者の「老けメイク」すらもなしで時間が移り変わること、そのとき流れる時間の速度は数時間でも数日でも十数年でもありうることは、オイディプスを現代に甦らせることと大いに関係がある。
 こうしたつくりがルッキズムのような問題とも関わっているとか、ルシアンが息子と知らずにふるおうとする暴力が性暴力であることなどからこの映画の「現代性」を語ることもできるのかもしれないが、ここではしない。それよりも語りたいのはこの映画の時間、物語の中で飛び去るのではない、この映画の画面の中で流れる時間のことだ。誰がなにをしているのかよくわからないほどのかなりの遠景で、浜辺で女性が赤ん坊をあやしている時間。卓球台の周りをくるくる回る3人ピンポンをしている時間。そしてイロの足首にヤモリ(?)が這いあがろうとする、あの凍りついたような時間。それらは物語の上で飛び去る時間とは明らかに次元を異にしているが、それでも共通点はあり、そしてそれこそがこの作品が「音楽」というタイトルを持つ理由だと思うのだが、「時間」は決して巻き戻ることがない。
 ルシアンの鼈甲っぽいフレームのメガネにはじまり、いつのまにかヨンがかけているメガネ、さらには映画が終わりに近づくほど画面の中で不気味なまでに増殖していく大ぶりのメガネ(終盤の交通事故の場面ではただの通りすがりの親子の両方がメガネ!)もまた、オイディプスの盲目という破局に向かって増大していくエントロピーを示しているのかもしれない。だがその不可逆な流れの堆積は、ヨン=オイディプスというひとりの身体が負うのではなくて、画面全体で共有されるのだ。世界全体が視力の衰えを止めることができず、増えゆくメガネを止めることができない。
 そうした意味で、時間の流れは絶対的に過酷なものである。しかしこの映画において、時間は人々に残酷な仕打ちしかしないのかと言えば、それは違うと思う。『はかな(儚)き道』はミリアム・ヤーコプとトアビョルン・ビョルンソンのデュエットではじまっていたが、ふたりはそれ以後、同じ歌をふたりで歌うことはなかった。しかし『ミュージック』では、アリオシャ・シュナイダーの歌声の中に、終盤でミリアム・ヤーコプの歌声が入ってくる。
 この映画のラスト、川辺での休暇のひとときを過ごした4人の家族が、川沿いに歌を歌いながら帰途につく。その途中で、ヨンとイロの娘であるフィービーは、反対側からやってきた自転車を引いた少年と抱き合い、しばしフレーム内から消え、やがて再び家族の歩みに加わる。少女がたまたま近所に住んでるボーイフレンドと出会っただけ、とも見えるこのシーンだが、私の解釈は少し違う。時間、あるいは運命のように流れていく川のほとりで、いまはたまたま家族とともにいる少女にも、やがて運命的なガールミーツボーイが起こって、家族のもとをしばし離れるかもしれない。それでもまた再び彼女は家族のもとへと帰ってくるのかもしれない。いまはまだ誰も知ることのない少女の人生、その流れのはるか先で起こる出来事をこのシーンは束の間見せているのかもしれない。だとすれば、そこでは物語の上で飛び去る時間と画面の中で流れる時間とが分かち難く結びついているのであって、それならそれはひとつの音楽だと呼ぶほかない。


第36回東京国際映画祭にて。11/1、15:20〜も上映あり

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