《第36回東京国際映画祭》『女性たちの中で』シルビア・ムント
浅井美咲
[ cinema ]
本作は1970年代〜80年代にかけてバスク州エレンテリアで、千人以上もの女性の中絶を手助けした女性支援団体から着想を得て製作されており、作品の中でも中絶の権利を訴える団体が描かれ、主人公ベアもこれに参加するようになる。ベアと団体の仲間は、街中にバスを走らせて中絶の権利を訴えるデモを行ったり、望まぬ妊娠をした少女ミレンと一緒に国境を越え、フランスで中絶手術を受けさせることに成功したりする。全編を通してその運動の精神を伝えようとする作品であるが、ここでは母フェリとの関係性の変化が、ベアが度々手に取るナイフのイメージを変容させ、ベア自身の心に影響をもたらしていく点に着目してみたい。
ベアは刑務所に収監されている父親からもらったという折りたたみ式のナイフをいつも持ち歩いており、それをレンガとレンガの間のセメントに無為になぞらせていく。夜中に道端でつるんでいた仲間と離れ、早朝の街をあてもなくほっつき歩く彼女がナイフを突き立てる映画序盤のこの様子からは、苛立ちや鬱憤のようなものが垣間見える。帰宅したベアは母フェリと顔を合わせ、連絡なしに外泊したことを咎められるが、まともに取り合わない。ベアの苛立ちは、当時の社会情勢のためでもあると同時に、どこか保守的な母にも起因しているようだ。映画中盤、ベアの叔母ベレンが望まぬ妊娠をし、夫に知られないよう、ベアと母が住む家に逃れてくる。母は憔悴するベレンを支え、体調が芳しくない彼女の看病に勤しむが、中絶への風当たりが依然として強い状況下で、手術する手立てを探すことすら躊躇する。ついに、ベレンは夫によって家に連れ戻され、彼との諍いのために命を落としてしまう。ベアは放心した母に寄り添おうとするが、彼女の言葉はどこか宙に浮いている。母と正面から対峙してこなかったベアは、母がベレンを救いきることができなかったのと同様に、母が何よりも苦しい時に、彼女に寄り添うことができない。
映画終盤、ベアと望まぬ妊娠をしたミレン、母フェリらは車に乗ってフランスへと向かう。ミレンが中絶手術を終えて眠っている間、ベアとフェリは車の中で話をし始める。二人の会話は細かい切り返しによって描かれ、これまでできなかった言葉のキャッチボールがやっと叶ったように見える。ベアはミレンに恋をしていること、そしてその恋が恐らく叶わないであろうことを告白するが、フェリはそれでもミレンと過ごすベアがとても幸せそうに見えたと話す。自らのことを母親には話そうとしなかったベアが、自分を開いていく。この会話の中で、フェリはベアに「いろんな問題との闘いを続ける」と告げる。「いろんな問題」とは何なのか、明確には語られないが、それはベレンを苦しめた中絶を禁止する法のことや、刑務所に収監され続けている夫に未だ恩赦が与えられないことだろう(作中では犯罪者への恩赦を求めるデモが描かれるシーンがある)。二人は初めて心を通わせると同時に、社会問題に対して共に闘ってゆく仲間にもなるのだ。
次のシーンでは、ベアとミレン、フェリがエレンテリアに戻る道中の車内が映される。キャメラは、後部座席に一人で座るベアがナイフの刃を開いたり閉じたりする手元を映す。キャメラはその後上に移動し、ベアの顔をクロースアップで映すが、ベアの顔には窓の外からの光が差し込んでいて、その表情もどこか晴れやかである。この時、初めは苛立ちや反抗の象徴のように見えたナイフが、母との対話を経て、戦士が携える武器のように、ベアの社会との闘いの意志を象徴する存在として見出されるのだ。最後にベアの手に握られたナイフを目にしたとき、我々の中にもその意志の一端が受け継がれてゆくような気がする。