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October 31, 2023

《第36回東京国際映画祭》『タタミ』ザル・アミール、ガイ・ナッティヴ
作花素至

[ cinema ]

phonto 4.JPG ジョージアで開催された柔道女子世界選手権。新進気鋭のイラン代表、レイラ(アリエンヌ・マンディ)が突然同国の政府から棄権を命じられる。彼女と代表監督のマルヤム(ザル・アミール)が抵抗すると、当局の容赦ない攻撃が始まる――。『タタミ』は、試合と政治的圧力との二重の戦いの果てに、抑圧的な体制からの解放を希求する女性たちのもう一つの戦いを浮き彫りにする。そのアクチュアルなテーマもさることながら、サスペンス活劇として、語の最も良い意味でハリウッド映画を思わせる作品だ。スタンダードサイズで強いコントラストのモノクロ映像は、試合会場の観客席などを暗闇に沈ませながら主戦場としての四角い畳を白く輝かせ、その周りに緊密なドラマを構築している。
 この映画は限定された舞台で展開する。試合会場が閉鎖空間であることに加え、並行編集で示される故国のレイラの夫らも月のない夜空の下にいる。映画の冒頭と結末で、車窓などからどんよりとした空がわずかに見える以外、この映画の世界に日の光は届かない。その暗く重い天井の下で、レイラ、夫、マルヤム、さらに大会主催者らはそれぞれ分断されながら敵と戦うことを強いられる。ただし、彼女らは互いに居場所を切り離されつつも通信の網の目によって常に捕捉されているのが特徴だ。異国でのレイラの反逆行為に対し、当局はイランにいる彼女の家族をただちに迫害し始める。そればかりか、試合会場の彼女にその動画まで送りつけてくるのだ。マルヤムもまた柔道協会の会長から電話で間断なく脅迫される。逆に、レイラは夫に逃げるよう連絡することができ、彼は息子を連れて妻の試合と同時刻に国境へと急ぐ。高速通信のやりとりが、同時進行の「リアルタイム」なサスペンスを作り出している。
 明るい空の排除、連帯を欠いたかに見える孤立無援の戦いの複層性、そして「リアルタイム」性の強調による絶え間ない現在への肉薄。こうした『タタミ』の特徴的な画面は、かつてハリウッドが送り出した傑作の記憶を呼び起こす。ロバート・ワイズ監督の『罠』(1949)がそれである。ロバート・ライアン演じるボクサーが八百長試合を要求されてひとり苦闘する映画だ。確かに、ふたつの映画は主人公のジェンダーも、競技も、テーマも異なる。女性たちの自由のための戦いは、うらぶれた中年男の最後の悪足掻きとは本質的に別物に違いない。それでも、ある夜の約70分間を描くミニマルな物語、ライアン、妻、同業者ら各々の寄る辺ない葛藤、上映時間と作中の経過時間が一致するという意味での「リアルタイム」形式は、アクションに的確に反応するショットと相まって、まさしく『タタミ』の遠い祖先だと思えてならないのだ。
ここで付け加えれば、同作における現在への肉薄は、同時性のみならず、過去の削ぎ落しと明瞭な対決構図による目前の戦いへの集中によっても達成されている。そのことが『タタミ』(の特に前半)に語りの速度と一定の古典的風格を与えていると言えるだろう。レイラはとにかく強い選手だが、特訓や柔道への思い入れのようなバックグラウンドは一切捨象されている。このあたりの無根拠さは、『罠』よりも『鉄腕ジム』(ラオール・ウォルシュ、1942)のエロール・フリンに近いかもしれない。同様に、レイラにとっては勝負に勝つこと、自由を追い求めることはあらかじめ定められた絶対的な正義であって、何らかの個人的な過去に起源をもつものではないのだ。
 映画は後半に至って、『罠』から離れ独自の核に到達する。『タタミ』の最終的な敵として設定されているのはイランの現体制であり、同国で今も進行形である女性への陰険な抑圧という現実が、しだいに重くのしかかってくる。男たちの執念深い恫喝がレイラの自信を圧し潰し、呼吸は乱れ、足取りの力強さは失われる。彼女のもとにマルヤムが駆けつけ、分断されていた二人が再び同じフレームに収まると、故国への「否」が言明される。ここまで映画を夢中で追い続けてきた者なら、きっとその言葉の訴求力を誰も否定しないはずだ。けれども、本作に言葉よりも強い信頼をもたらしてくれていたのは、レイラがイランの地下クラブでヒジャブを、また畳の上で黒いフードを脱ぎ捨てる姿を静かに収めていた、決定的でありながらコンティニュイティを尊ぶショットだったのではないだろうか。