『ザ・キラー』デヴィッド・フィンチャー
鈴木史
[ cinema ]
ザ・キラー(マイケル・ファスベンダー)がパリのうらぶれた廃ビルの一室で獲物を待っている。彼の前にはちょうどスタンダードサイズのスクリーンのような四角形の窓があり、そこからは道向かいにある豪奢なホテルが見える。彼のモノローグは、平静を保ちながら暗殺という職務を遂行するための条件を語ってゆく。パリと他の国の都市が異なる気候や環境音を持っていること、そのなかで暗殺をするのに最適な手段を選ぶこと、スナイパーライフルで暗殺を行うことの利点と欠点。ザ・キラーから語られるそれらの事柄が、彼が優れた殺し屋としての鋭敏な意識の持ち主であることを示す。パリでは誰もが煙たがるドイツ人観光客になりすまし、買い出しに行き、食事をして、心身の安定を維持するためにヨガをする。仕事の時間が来ると、彼はお気に入りのザ・スミスを聞きながらライフルを取り出し、サイレンサーとスコープを取り付け、弾詰まりを防ぐために弾倉を寝台に軽く叩きつけてから装填すると、寝そべって標的を待つ。
"Forbid empathy. Trust no one."(共感するな。誰も信じるな。)
そのようにつぶやく彼は、殺し屋という職業意識に貫かれたアスリートそのものだ。しかし、彼はどんな観客の応援も評価も必要としていない。彼は他者のまなざしを欲していないからこそ、スコープ越しに獲物を待つ平静さを持ったプロフェッショナルの職業人でいられるのであって、そのたたずまいに魅了され、感情を寄せる観客が間違っても成り代われる存在ではない。彼を見つめているのは、自身の仕事ぶりを判定する彼自身のまなざしのみだ。しかし、そんな彼にイップスがやってくることで、仕事に綻びが生じはじめる。凡庸な身なりで限りなく自己を消し、窓の向こうのホテルの一室に見えていた標的に向けライフルの引き金を引いた瞬間、弾丸は標的の男を肉感的な肢体で誘惑していたボンテージ姿のSM嬢に命中してしまうのだ。その失敗が彼自身からもたらされたものか、それとも標的の男を誘惑するSM嬢の不随意な動きからもたらされたものかはわからないのだが、共同作業者として息を合わせなければならなかったこのSM嬢との連携がずれたことによって、殺し屋としてのキャリアはスランプに入ってゆくことになる。この冒頭の失敗により、彼は自身の仕事ぶりの最も厳しい評価者である自分自身のまなざしに捕らえられることとなり、そのまなざしは『ザ・キラー』という映画を見る観客のまなざしともシンクロする。残された100分近くの時間、ザ・キラーはそのまなざしから逃げ続けることになるのだ。
本作は空港の入国審査官や高級レストランのウェイターといったそれぞれの職業意識に徹した人物が画面の多くを占めており、彼ら彼女らの統御された一挙手一投足はザ・キラーの感情を乱すことをしないが、母親におもちゃのピストルを向ける幼い子供やオフィスのエレベーターで砕けたジョークを唐突に投げかける気を抜いたビジネスマンといった職業意識の外部にはみ出た存在のみが、変装によってドイツ人観光客らしさ、ゴミ収集人らしさ、FedExの配送人らしさを偽装するプロフェッショナルとしての彼の計画を掻き乱す。「人間はこのように行動するはずだ」という予測の中から導かれてゆく彼の暗殺計画は、社会のルールに従って生きる人々の「何者からしさ」に支えられているのだが、暗殺の失敗というイップスを境に、行動すればするほど、その「殺し屋らしさ」には綻びが生じ、彼の人物像の輪郭は曖昧なものになってゆく。
ある高級レストランで、ウイスキーをあおる標的(ティルダ・スウィントン)がザ・キラーにこんな寓話を語る。ある猟師が熊を撃ったが、撃ち損じ、気づくと猟師の背後に回っていた。熊は猟師に言う。「食い殺されるか、犯されるかを選べ」。猟師は犯されることを選び、生き延びるのだが、再び森で熊に出会うと猟師はまた犯されることになる。この猥雑な寓話を語った標的をザ・キラーは撃ち殺さなければならないのだが、お決まりの"Forbid empathy. Trust no one."(共感するな。誰も信じるな。)という文句を頭の中で呟こうとも、寒々しい夜の公園をサクサクと音を立てながら歩くその白金色の髪の標的に言葉を紡ぐのを遮られるばかりで、たとえ殺しが成功したとしても優位性はすでに彼女に奪われている。そのとき殺し屋は、冒頭の暗殺失敗の時点で既にいたぶる側からいたぶられる側に座を移していたことに気づくのだ。その形勢が移り変わる様には、主人公マーク(ジェシー・アイゼンバーグ)が自身の通う大学の女子学生を格付けするためにFacebookを考案し億万長者となりながらも、彼が初めに恋焦がれていた女性とは永遠の断絶が生まれてしまう『ソーシャル・ネットワーク』(2010)のラストや、『ドラゴンタトゥーの女』(2011)のリスベット(ルーニー・マーラ)が女性でありながらアウトローとして生きる上で、その身体にタトゥーやピアスを入れることで他者のまなざしを跳ね返さなければならない自傷と他害の渦のなかにいたこと、あるいはすれ違う夫婦が、物語る主体を奪い合う『ゴーン・ガール』(2014)などといった過去のフィンチャー作品の構造の反復を見て取ることもできるだろう。しかし、それらが男性性と女性性が引き起こす不均衡に基づいていた過去のフィンチャー作品と比べると、本作は男女という二元的な対立の意識からは距離を取っているように見える。ザ・キラーはパートナーがいながらも、彼のたたずまいからは性的に旺盛な印象は感じられない。しかしだからこそ、彼自身の仕事に綻びが生じるのが、冒頭のSM嬢との呼吸の乱れだったことが強い印象を持って浮かび上がってくる。ボンテージ姿のSM嬢は強烈な女性性を誇示して相手のまなざしを支配しながらも、男に金によって買われているのであり、そこで行われていたSMは支配と被支配が入れ替わり続けるゲームだ。男女の不均衡よりさらに押し進み、支配と被支配というサディズム/マゾヒズム的な関係のみが、ある虚無感とともに本作全体のトーンを覆い尽くしている。
最後の標的は、株式売買を生業とする男だ。到底使いきれない巨額の富を動かす凡庸な身なりの中年男を前に、凡庸な身なりをした中年の殺し屋は、その標的を「殺す」か「犯す」か選択を迫られることになるだろう。多額の富を動かすことによって、おそらくはザ・キラーよりもはるかに多くの死や悲惨を生み出しているその投資家を前にして、自らの手でひとりひとりに死を与えてきたそのフリーランスの殺し屋の空疎さが際立ってゆく。
"Forbid empathy. Trust no one."(共感するな。誰も信じるな。)
そう自身に言い聞かせ続けることで、限りなく自己を消耗していったように見える殺し屋は、標的を食い殺すのではなく、いくつかの言葉を残すことで、標的をまなざしの渦巻に突き落とし、彼の魂を犯して、去ってゆくだろう。
ビーチに寝そべるザ・キラーは疲れ切り、サングラスの下のまなざしはどこかうつろだ。すでに世界からあらゆる意味が剥奪され、自らの生死すらも価値を失っているかに思える。しかし、モリッシーの歌声が聞こえてくる。
"There is a light and it never goes out."(決して消えない光がある)