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November 20, 2023

《第36回東京国際映画祭》 『20000種のハチ』(公開題『ミツバチと私』)エスティバリス・ウレソラ・ソラグレン
鈴木史

[ cinema ]

phonto.jpg  人はこの世界に生まれ落ち、物心がついた時、自身が何らかの名前で名指されているという事実に気づく。多くの人はそれを当たり前のこととして何の気もなく受け入れていくだろう。あるいは幾らかの人は、そのことに戸惑いながらも、名指されてしまった名前を自ら名乗ることで自己をかたち作ろうとする。しかし、そのなかにごくわずか、名指された名前を引き受け切れぬほど傷ついた魂の持ち主がいる。
 8歳のルシアはある一家の末娘だ。ルシアの家族は関係に不和をきたしており、会話は常に刺々しいトーンに包まれている。彫刻家としてのキャリアと親としての役割に揺れる母は苛立ちを隠せず、兄は乱暴にルシアをベッドから押しのける。ごく曖昧にしか画面に登場しない父は、ときおり異星人のように家族のもとに姿をあらわしては、決定事項かのように休暇の過ごし方を母と子に告げ、去って行くばかりだ。自分自身の意思が尊重される瞬間などまったく差し挟まれる余地もなく、濁流のように流れて行く家族との時間のなかで、ルシアはある秘密を抱えている。それは、ルシアが女の子であるということだ。一家はそのことに気を払う時間を持てず、ルシアを「ココ」や「アイトール」という男性の名で呼び、女の子として生きようとするルシアの意思から目を逸らそうとしている。しかし、バスクの田舎村で祭りの準備をする人々の会話をとらえた手持ちカメラは、大人たちの会話を画面に響かせながらも、それを無言で聞き、時折その会話に飽きたように視線を逸らすルシアにこそ、主人公としての特権的なたたずまいを与えている。この主人公にとっては、画面に響く大人の会話の多くがその場を取り繕い、事を円満に進めるための方便であり、そのことに気づき画面の外にまなざしを向けているルシアはこの世界の理に疑義を差し挟むちいさな批評家だ。プールの更衣室でトラブルになった末、戸惑いのなかで、一体何が不満なのかと詰め寄ってしまう母へ、掴んだまま腕を離さないことが嫌なのだとルシアがあくまで筋道の通った意見を放ち、母が返す言葉を失う瞬間や、あるいは彫刻家だった祖父の仕事と生活のほとんどが祖母の手によって成り立っていた事実が語られる中盤の会話をはじめとして、嘘や方便を重ねて力任せに取り繕われているこの世界が、子どもらしさを引き受けることのできない、このちいさな批評家のまなざしを受けて、ほつれてゆく。
 終盤、父の反対を受けながらも、胸に控えめな刺繍の入ったドレスを着てルシアは親族とのパーティーに向かう。しかしルシアは「お母さんが悲しむのが嫌だから」と言ってドレスを脱ぐと、やがて画面から姿を消してしまうだろう。鬱蒼と木立の生い茂る川岸を母や祖母や父や兄が息を切らしながら、末っ子の名を叫んで探し回る。そこで叫ばれる「アイトール」という名の響きは、薄暗い森をより陰鬱な空気に包んでいくばかりだが、かつてルシアをベッドから追いやって乱暴に振る舞っていた兄が、耐えきれなくなってはじめて「ルシア!」と、密かに教えられた妹の正しい名を叫び、やがてその叫び声が弱々しい咽び泣きに変わってゆくとき、逆説的に彼自身が異様なまでの「兄」らしさのたたずまいのなかに収まってゆく。本作は、自身のアイデンティティが揺らいでいる末っ子が自己を確立してゆく物語ではなく、自身のアイデンティティを持てずにいる人々が、はじめから揺らぐことのない自己を持ち続けていた末娘に向き合うことによって自己を生み直してゆく物語だ。だから、この終盤のシーンにおいて、兄や母から咽び泣きとともにはじめて聞かされる「ルシア」という名の叫びは、ルシア自身の誕生を意味しているというよりも、それを叫ぶ兄や母自身の産声と言える。はじめから壊れかけていた家族やそれを支えてきた傲慢な歴史のすべてが吹き溜まりのようにのしかかってしまった末っ子のルシアが、はじめて自分自身の決定した名を他者から呼ばれ、他者からの尊重を勝ち得るとき、彼女は自身が世界をまなざすちいさな批評家であることをやめて、まなざされる客体としてこの世界に参加していくことになるだろう。
「ルシア」の語源は、闇にもたらされる光を意味する「ルクス(LUX)」というラテン語だ。闇に包まれた世界に、末の娘が光をもたらし、崩壊しかけた家族の秩序が回復する。このような物語の構造やルシアの人物像は、ルシアが聖ルチア像に出会うシーンを思い出すまでもなく多分に神話めいており、『燃えあがる緑の木』に代表されるような大江健三郎の小説に登場する、男女という二元的なジェンダーの境界で自己を揺るがされている人物すらも想起される。そうした人物が「トリックスター」といった言葉を弄するための軽薄な借り物として仕立てられたのではなく、人々が激しく対立し悲惨が積み重なるその作品世界の語り手を担いうる者として、必要に迫られて創出された存在だったように、ルシアといった人物が示すのも「トリックスター」や「神話」という言葉だけの道具立てから離れ、常に既に必要とされ、ともに存在し続けてきた、現実を生きるただひとりの人間の姿だ。
『20000種のハチ』(公開題『ミツバチと私』)はこまごまとしたよろこびの瞬間に満ちた映画でもある。「これなら彫刻を作ることだってできる」と母が言うほどに硬くなった蜜蝋を、ルシアが小さな手のひらで叩く音。ミツバチ小屋のそばで友人にトカゲの尻尾を渡され、不気味がりながらも微笑むルシアと友人の顔が風にあおられた長い髪で隠れる一瞬。それら幸福の瞬間が、どれほどの怒声や悲鳴に包まれた不幸な幼少期を過ごした人にもひとつやふたつですらなく意外なほど無数にあったのだということを、本作はバスクの自然とルシアの仕草や表情の機微を通して思い出させてくれる。


2024年1月5日公開