『王国(あるいはその家について)』草野なつか監督インタビュー 「あの日のことであり、これからのことでもある」
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12/9よりポレポレ東中野にて劇場公開される『王国(あるいはその家について)』。奇しくも最新作短編「夢の涯てまで」(映画『広島を上演する』中の一編)が同日より公開となる草野なつかだが、彼女の決して多くはないフィルモグラフィの中でも最も重要とも言える本作は、完成から5年越しの公開となる。
俳優の身体の変化を主題とした本作では、「役を獲得する過程」を「声を獲得する過程」であると捉え、同場面の別テイクのリハーサルシーンを幾度も繰り返し映す。その繰り返しの中で、役者が、その声が、カメラが、音響が、脚本が、編集が、そして演出が、これまで見たこともないようなかたちで互いに作用し合い、作品を形成していく。まるで「映画を発明し直して」いるかのように。この特異な作品を監督の言葉とともに紐解いていきたいと思う。
ーーこの作品は最初と最後にあるフィクションパートと、その間にあるリハーサルシーンという構成になっています。その理由をまず教えていただけますか。
草野なつか この作品は愛知県美術館と愛知芸術文化センターの助成金で製作したのですが、当初の企画書では、最初の取り調べのシーンをまず撮影し、それからリハーサルをして、最後に手紙のシーンを撮影する、ただしリハーサル場面は作品には入れないで、最初と最後のシーンしかない短編にしようと思っていました。でもそれだとリハーサルによる役者の身体の変化を見せるには弱いと思ったんです。さらに最初は受けの芝居で、最後は読みの芝居だから、芝居の質が違うので単純に比較もできない。
そこで急遽、リハーサルも作品内に入れることを決めて、このようなかたちになりました。
ーーリハーサル部分に関して、出演者の衣装などを見る限り撮影の時系列に沿って編集されているという認識で合っていますか?
草野 はい。例外的に1、2ヶ所入れ替えた部分もあるんですが、基本的にはリハーサルを行った順番通りです。
ーーそのリハーサルシーンは澁谷麻美さんと笠島智さんのふたりが、まず横並びに座った状態での本読みから始まります。なぜ横並びなのか。
草野 ひとつには画面の収まりがいいというのがあります。撮影に入る時点では、なるべく切り返しをしたくないと思っていたので、ふたりの人物を撮影するのに都合のいい配置だったという単純な理由です。
もうひとつは、本読みというのは、役者がセリフや状況を身体に入れている途中の段階だということもあります。今回の現場に入る前に、役者の方々にはあまりシナリオを読み込まないできてくださいとお願いしていました。まっさらな状態から始めるという過程を踏みたいと思っていたんです。だからこの最初の段階では、相手に言葉を投げるというよりも、まずは身体にセリフを入れてもらうことに重心を置こうと。目の前に相手がいるとどうしても芝居に入ってしまうので、そうした余計な要素を排した方がいいかと思い、横並びになってもらったというのもあります。
ただ、最初の段階から足立(智充)さんは結構体が相手に向いてしまっている(笑)。どうしようかなとは思いながら、これはこれでいいんじゃないかと、そのままやってもらいました。
ーー椅子の上であぐらをかいていますよね。恐らく直人という役柄はあぐらをかきながらそんなことは言わないんじゃないかという気がしてしまうんですが(笑)、ある意味で役者の身体と役柄のズレのようなものが可視化されている気がしておもしろい。
横並びの後で、澁谷さんと笠島さんそれぞれひとりのカットで向かい合ったり、また隣り合ったり、今度は椅子を突き合わせて向かい合ったりしますよね?そのあたりの狙いはなんだったのでしょう?
草野 横並びの状態でまずは身体にセリフを入れてもらって、次に相手に言葉を投げてもらう段階としてお互いに向き合ってもらおうと思いました。でもそのときに距離が近すぎると、まだ声が出来上がってないのに、抑揚や感情などその時点ではまだ必要のない要素が加わってしまう気がしました。どうしたらいいのか考えて、声が届くか届かないかの距離まで椅子を離してもらったんです。声を届けることが容易にはできないぐらいの距離をとってもらって、まず言葉のキャッチボールに専念してもらいました。そしてだんだんと声が出来上がってくるにつれて、じゃあ次はちょっと感情の部分を足してみましょうかと距離を近づけて。さらにまたそこから横並びに戻して、相手の顔を見ないでセリフを言ってもらったり。そういうことをやっていました。
ーーいまのお答えの中で「声が出来上がっていない」という表現がありました。チラシやプレスでも「俳優が役を獲得する過程="役の声を獲得すること"」という言葉が用いられています。役の獲得とは、表情や動きなどよりもまず「声」であると。その点について少しお聞かせください。
草野 なぜ「声」なのか、それは正直自分でもよくわからないのですが......。
『螺旋銀河』(2014)の撮影時から、顔の芝居をなるべくそぎ落としたいという気持ちはありました。芝居をそぎ落としていってもなお残る、役柄に絶対的な説得力を与えるものは声なんだと、そのとき気づいたのかもしれません。
でもさっき別の取材で話していて思い出したんですが、もっと根本的な原因を遡ってみると、子供の頃、母が朗読テープや朗読CDをよく聴かせてくれたということも関係あるのかもしれません。小さい頃から朗読が好きだったなと。
ーーいま目の前にある映像とは全然別の映像が声によって立ち上がってくるという体験は、この『王国(あるいはその家について)』という作品の特徴でもありますよね。
そのときに気になるのは、画面は必ずしも声を発している人物を映しているわけではないということです。例えば特定の人物に寄るショットで、誰を撮りどのタイミングでパンをするのかというのは、撮影の渡邉寿岳さんとの間でどの程度前もって決めていたのでしょうか。
草野 まったくノータッチでした(笑)。前もってなにも決めずに撮影に臨んだ上に、現場でも本当にノータッチ。この場面はこっちの顔が欲しいとかも言わずに、私はただただ役者と共に声をつくりあげることに専念していました。私を含んだ現場全体の様子を、渡邉くんが遠くから見て判断していたのだと思います。
ーー画面の色調が変化したりする印象もあったのですが、それも監督の指示ではないと。
草野 照明を持ち込んでいないので、天候や時間帯に左右されたりしていると思います。外的要因によってトーンが変わるみたいな。
ーー亜希と野土香が車で買い物に行くシーンの何度目かで、暗い画面になっているのもそうした理由なんですか......。てっきり窓をふさいだりして車内っぽい演出をしてるのかと思っていました。
草野 椅子の配置を運転席と後部座席のようにした以外は、特に意図したわけではないです。その場面は、なぜか車の走行音に似た音がしているんですよね。だから余計に車内に見えるかもしれない。でも音響の黄(永昌)さんは基本的にそこにない音を過度に加えたりはしないと思うので、偶然の産物です。
ーー撮影についてもう一点聞いておきたいのは、いわゆる「実景」のような、龍ヶ崎市の風景のことです。登場人物を演じる俳優たちは実際にその場所を訪れているわけではないのに、『王国(あるいはその家について)』という映画の物語を思い浮かべると、あれらの景色の数々が思い浮かびます。
草野 この映画の撮影自体が1月で、実景を入れると決めたのが多分4月ぐらいだったと思うので、だいぶ後になってから追撮したものですね。ただ、実景を入れないとやっぱり広がりが出ないんじゃないかというのは、かなり早い段階から悩んでいた気がします。堀禎一さんとご飯を食べに行ったときに、入れるべきかどうか相談したような記憶があります。
でも、もし入れるとすればこの場所を見せようというのははじめから決まっていました。それはなにかというと、この作品をつくる出発点のひとつとなっている、私の友人夫妻の家です。だから、その景色をこの作品に入れると決めたとき、物語の原点に帰ってきたというような感覚がありましたね。
ーー友人夫妻の家に行ったときに監督ご自身が体験した感覚がこの物語の出発点にあるとのことなんですが、高橋知由さんの手による脚本は、言葉が空間を立ち上げること、そしてまたその空間に囚われてしまうことの危険といった、どこかシナリオとそれを演じる俳優の関係を想起させるような内容にもなっていて、本当にすごいと思うんです。
草野 それは高橋くんの腕ですね(笑)。本当に彼に丸投げで、「丸投げするなら先に言っておいてよ」と言われたくらいですから(笑)。
ただ、一緒にシナハンをしたことはとても重要だったと思います。先ほど話した家にも遊びに行かせてもらったり、近くを流れる川や田んぼ、かつての賑わいがもう新しいモールのような場所に移ってしまった旧い商店街とか、そういう景色を共有できたことは、シナリオに大きな影響を与えていると思います。
ーー俳優の身体をめぐる企画であるという前提で執筆を依頼された脚本なのですよね?ただ、このインタビューのはじめの話を聞く限り、リハーサルを繰り返すという形態になるとは予測できなかったはずなのに、なぜかそうしたことも含んだ内容のシナリオに思えてしまう......。
草野 彼はありとあらゆることを想定して書いているので、私がそういうことをしだすかもしれないということまで読まれていたのかもしれない(笑)。
そのあたりは私と高橋くんの好みの共通性に助けられているかもしれないですね。メタ的な構造やレイヤーのような仕掛けみたいなものは私も好きですし。だから彼に頼むからには、絶対私が嫌なものは上がってこないだろうという信頼はありますね。
ーーこの映画の特に中盤くらい、同じシーンのリハーサルが繰り返されるときに、その都度シーンのどの部分まで進むのかが違いますよね?あれはなんらかの理由でシーンを途中までで切ってリハーサルをしたのか、それともシーンまるごとリハーサルしているけれど編集で切っているのか......。
草野 主に編集ですね。撮ってはいるけれども切っている箇所が多いです。というのも、「役者の身体の変化を見せる」という目的とは別に、編集の方針として物語をどう語るか、サスペンスをどう生むかという点を考えたからでもあります。同じ繰り返しのように見えても、少しずつ新しい情報が加わっていくことで、観客にとって次第に物語が明らかになっていくというような。役者の身体の変化というテーマにそれほど興味を持っていない観客の方でも、そうした楽しみ方ができるんじゃないかと。
ーーその繰り返しの中で、役者の演技自体についても、例えば直人と亜希の言い合いが撮影を重ねるごとに役に入り込んで激しくなって、でもある地点でまた少し平静さを取り戻すという箇所もあるような印象も受けました。
草野 言い争いのシーンに関しては、外で撮影しているテイクはちょっと感情がむき出しすぎるなという気がしました。役者と役の間のギリギリのラインを狙いたかったので、次の一回でもう完成するというテイク、ギリギリのところで止めたいという理想はありました。そこから先は本番になってしまって、この映画には不要のものになってしまうので。
ーーいま仰られた、直人が自転車を引いて亜希と言い争いをするシーンでは、実際に外に出て撮影するそのシチュエーションが演技になにか作用したと思われますか。
草野 おそらく作用したと思います。あのシーンは最初、リハーサル室の中でやってもらっていたのですが、道を歩きながら話すというシーンを、道のない空間で同じところをぐるぐる回りながら演じるというのがとても難しくて、芝居に必要ない邪魔なものが出てきちゃったんです。だから、この歩く芝居は実際の道でやりましょうとなりました。でもそうしたら、それまでずっと室内でやっていたせいか、澁谷さんも足立さんもテンションが上がってしまって(笑)。久々の外だし、カメラも移動撮影で撮っていたので。テンションが上がる要素がたくさんあって、演技にも影響したのかなと思います。
ーーまさに映画という仕組みが演技に影響を与えてしまったわけですね。そのことで思い出すのは、野土香が亜希に帽子を届けに来る場面で、亜希が折り鶴を折っているショットから、突然「カット割り」が生じますよね。
草野 やることを模索していく中で、渡邉くんが言っていたのは「草野さんは映画を発明し直してるんですよ」と(笑)。そこまで大それたことではないんですが、だんだんと過程を経て進んでいって、これができた、これもできたと積み重ねていくと、やっぱりカットを割りたくなるんですよね。当初から計画的にある段階までいったらカット割りをしようと決めていたわけではなくて、自然と現場でここまでやれたら次はカット割りだよね、となりました。
現場に行くときにはいつも渡邉くんの車で向かっていたのですが、彼は呪詛のようにずっと「草野さん絶対カット割りしたくなると思いますよ」って言い続けていました(笑)。カット割りがあることで「あ、映画だ」という感じがする部分は絶対あると思います。そういう意味で、この作品を映画として成立させている要素なのかもしれないという気もします。
ーーそうした過程を経て、リハーサル終盤に置かれた、30分間通しの本読みは、『王国(あるいはその家について)』という映画の物語の全貌を見せる役割と役者たちの身体の変化を見せる役割においてクライマックスとも言えると思います。そこで、物語と役者の身体という要素が複雑に絡み合う。
草野 この最後の本読みを見たときに、スタッフたちは「もうこれ以上やることはない」ということで意見が一致しました。役者さんたちはまだやっていないこういうこともできるというくらいのテンションだったのですが、これ以上やれることはもう本番を撮ることだけだ、だからこの作品はここで終わりだ、と。
ーーこの作品の形式と物語の内容が期せずして相乗効果を生んでいる部分がある気がするんです。亜希は犯罪を犯したわけですが、同じシーンを繰り返すというこの作品の手法が、彼女はいったいなにを思いどういう動機でその行動に至ったのかということにひとつの「正解」を与えることを拒んでいるような気がします。そしてそれは一方で、私たちが過去の出来事を思い出すときに、思い出そうとするたびに少しずつ細部が変わっていってしまうような、そんな記憶のあり方そのものを描いているようにも思えました。特にこの作品で一番多く繰り返される「マッキー・ザ・グロッケン」のシーンでそんなことを考えてしまうのですが、なぜこのシーンがそれほど繰り返されるのでしょう?
草野 このシーンにはいろんな感情が存在しているし、3人の登場人物全員がちゃんと言葉を発していて、全員が受けの芝居もある。言葉にすること、言葉にしないことが両方存在するという意味で、ここが一番肝になると思ったんです。このシーンのコミュニケーションが成立して、役柄の声を獲得して、そしてすべての感情がきちんと一緒に付いてくれば、この映画は成立する、そう思いました。
ーー観客たちはみんな実際にはこれはリハーサルだと思って見るわけなんですが、ある意味、この作品の制作当時は誰も言わなかったけどいまとなっては陳腐になった表現を使うなら、マルチバースですよね(笑)。
草野 マルチバースを先駆けてた!確かに(笑)。「マッキー・ザ・グロッケン」のシーンは、あそこから3人の関係が崩れていく地点でもあり、でも彼らが一番幸せだった場所とも言えます。そのどちらでもあり得る、それがあのシーンの魅力だと思います。
聞き手:浅井美咲、結城秀勇
『王国(あるいはその家について)』
監督:草野なつか
脚本:高橋知由
撮影:渡邉寿岳
音響:黄永昌
出演:澁谷麻美、笠島智、足立智充、龍健太
2018年/カラー/スタンダード/150分
配給:コギトワークス
12/9よりポレポレ東中野ほか全国順次公開
© 一般社団法人マレビト
『広島を上演する』監督:三間旭浩、山田咲、草野なつか、遠藤幹大
出演:林ちゑ、寺田燿児、吉田萌、川下ヒロエ、さいとうよしみ、倉谷卓、住本尚子、かのけん、西山真来、生実慧
撮影:井山永一郎、山田咲、飯岡幸子、 橋航
制作:三宅一平
製作総指揮:松田正隆
助成:AFF2
企画:マレビトの会
製作:一般社団法人マレビト
12/9(土)〜22(金) ユーロスペースにて公開
草野なつか(くさの・なつか)
1985年、神奈川県出身。東海大学文学部文芸創作学科卒業。2014年、『螺旋銀河』(第10回CO2助成作品)で長編映画を初監督。同作は第11回SKIPシティ国際Dシネマ映画祭にて、SKIPシティアワードと監督賞を受賞。長編2作目である本作『王国(あるいはその家について)』は、ロッテルダム国際映画祭2019、第11回恵比寿映像祭、山形国際ドキュメンタリー映画祭などで上映された。最新作は、映画『広島を上演する』(2023)中の一編「夢の涯てまで」。