『マハゴニー(フィルム#18)』ハリー・スミス
結城秀勇
[ cinema ]
ニューヨークの街角、人物の肖像、あやとり、草木や水、ウイスキーの瓶や骸骨や六芒星やダンサーやインドの神々のアニメーション、色とりどりの砂や粉や積み木や液体が織りなす図形。そうしたものたちが2×2の四つの画面に配置されていく。左右並んで鏡像のように反転した景色が同時に提示されたかと思えば、上下に並んだ映像がものすごく生理的に心地よいリズムのずれをともなって反復したりもする(たとえば、上の画面でバンザイ、手を下ろす、下に目をやるとちょうどそこでバンザイ、手を下ろす、といった具合に)。
そうした映像の配置のルールや編集のリズムについてこれ以上詳しく説明する知識も能力もない。配布資料によれば、「映画内の映像は「P・A・S・A・N・A・S・A・P」という回文を形成するように、肖像(portraits)、アニメーション(anmation)、象徴(symbols)、自然(nature)といったカテゴリーに分類されている」(NFAJハンドアウト第19号)らしいのだが、ニューヨークの街は肖像なのか象徴なのか自然なのかよくわからなかったし、「スミスは、鑑賞者の呼吸や心拍といったある種の定数を考慮しながら各シーンの長さを決定していった」(同前)らしいのだが、それも前述したようになんとなく心地よいくらいしか言えない。
そんなふうによくわからないこの『マハゴニー(フィルム#18)』という作品なのだが、しかしこれを見ようと思った理由とわからないなりになにか書かねばと思った理由なら、明確に説明できる。それはこの作品が、なによりもまず欲望についての作品であるということだ。
冒頭で、ハリー・スミスによるこんな説明が示される。「これはデュシャンの『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも』(大ガラス)の数学的分析である。クルト・ヴァイルによる≪マハゴニー市の興亡≫の音楽とブレヒトの台本に基づく(しかし必ずしも順番通りではない)映像を、対位法的に配置することで表現している」。"数学的分析"による分析結果がどのようなものになったのかはまったく説明できないが、『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも』がまさに欲望についての作品であることくらいはタイトルからもわかる。そして『マハゴニー(フィルム#18)』を時間的に規定する≪マハゴニー市の興亡≫というオペラが、大恐慌下のアメリカで、通り過ぎる人々を網のようにとらえて栄え、そして衰退していく拝金主義者たちの街マハゴニーの物語であることも知っている。
食欲、性欲、暴力、そして酒という饗宴を立て続けに行う場面が≪マハゴニー市の興亡≫にはあるが、そのひとつひとつに逐語的に対応するイメージは『マハゴニー(フィルム#18)』にはないと思う(蝋燭の上で割られる卵も暴食ではないと思うし......。ウイスキーのイラストはいっぱいでてくるが)。しかしその点こそがこの作品の真の狙いにして件の分析結果なのかもしれないとも思う。「私は映像によってこのオペラの「写実的な」バージョンを作ろうとしているわけではなく、むしろできる限りドイツ語のテクストのイメージを普遍的(もしくはほぼ普遍的)な象徴へと変換し、その適切なイメージを音楽に同期させようと思っている」「私の願いは、本作が単に成功するだけでなく、これが映画のための新しい理論的基盤を導入し、さらに、世界的に通用する象徴を用いることで、地球上のすべての人々をよりいっそう密接に結びつける一助となることである」(同前)。
彼の言葉を誇大妄想的だと一笑に付す気にはなれないのだ。≪マハゴニー市の興亡≫の初演時に反感を持った人々がデモを行ったという逸話に感銘を受けて、『マハゴニー(フィルム#18)』の初上映でもデモが起きるのを期待したが起きなかったというスミスの落胆の一部を、今日この作品を見る我々もまたどこかで共有するのかもしれない。初上映から40年以上が経ち、40年前とは比べ物にならないほど均質化されてしまった我々の欲望は、「地球上のすべての人々をよりいっそう密接に結びつける一助となる」どころか、溝を、境界線を、壁をこしらえてばかりいる。
だから、大きさやアングルを変えて何度も映し出されるニューヨークの街角の巨大な広告に書かれた「YOU'VE GOT A GREAT FUTURE BEHIND YOU」という一節が頭から離れない。おずおずとキスや愛撫を繰り返していた男女が、やがて平手打ちをし合い、髪をつかんで引きずり倒そうとするまでの流れを目にしたときの恐怖が消えない。