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February 5, 2024

『熱のあとに』山本英監督インタビュー

「生きること、愛することが地続きにあるように」

[ cinema , interview ]

『小さな声で囁いて』の山本英による新作『熱のあとに』が公開されている。本作は実際の事件を元にしたオリジナル作品であり、橋本愛演じる主人公の沙苗を中心とした「愛」を巡るフィルムだ。彼女の抱く愛とは、けっして一概に理解できるものではないかもしれない。しかし、私たちが生きる現在を振り返った今、自然に芽生え、また素直に訴えかけられてくるものとして見る者を鋭く惹きつけることになるだろう。脚本のプロセスを始め、モチーフとなっている水や星の重要性、そして登場人物の描き方など、監督に詳しくお話を伺った。


main_netsu.jpgーー本作は2019年に起きた「新宿ホスト殺人未遂事件」を元につくられています。これまで山本監督は『小さな声で囁いて』(2018)や『MADE IN YAMATO』(2022)の一篇『あの日、この日、その日』など、現実の出来事を扱いながらも、リアリティとフィクションの淡いに根差した作品を撮ってこられたと思います。ただ、『熱のあとに』は事実を元にしながらも、これまで以上にフィクションの純度が高い作品でもあります。このことは脚本を書かれたイ・ナウォンさんとの仕事が大きかったのではないかと思いますが、最初にご一緒されたのがYouTubeチャンネル『みせたいすがた』で配信された『惑星サザーランドへようこそ』(2021)でした。

山本英(以下、山本) たしかに自分が過去に撮った『小さな声で囁いて』や『あの日、この日、その日』は、目の前で生まれることやそこにいる人をどうにかフィクションとして撮っていきたいという気持ちで作った映画でした。しかし、今回の「生きることと愛することが地続きにある人物」をテーマに描きたいと思った時、どうしても今までのやり方では描けないというか。人物について考える時間がすごく必要だなと思ったんです。ナウォンさんは人物について深く潜っていくように考えていく方なので、彼女に導かれながら"この人はどういう人なのか?"、"どういう人生を送ってきたのか?"とサブテキストをお互いに書いたりして何度も考えていきました。その作業がフィクションの純度に繋がっていると思います。またナウォンさんとは東京藝術大学大学院の同期で普段から親交もあるので映画以外のこともたくさん共有していました。例えば最近自分の心に響いたもの、それはパフォーマンスでもいいし、演劇でもいい。また読んだ本でもいいから、とにかくお互いをメモ帳のように使って気付いたことをどんどん伝えていく。脚本を書くのはナウォンさんですけど、こうした作業がたくさんあったので何か自分の中でも書いているような感覚でした。またある時、ナウォンさんからE.Aロビンスの『リチャード・コリー』っていう詩を僕に送ってもらったこともあって、「この感覚って足立(木竜麻生)っぽいよね」というようなやりとりもしてました。

ーープレス資料の中で、木竜さんが演じた足立というキャラクターはナウォンさんのノマド的な部分が反映されていると書かれてあります。そういったやりとりが人物造形に関与した部分もあるし、同時にすべてが映画のためにあるわけでなかったんですね。

山本 そうですね。映画とは直接関係しないものでも、何でも擦り合わせていきました。あとはある映画のワンカットだけ写真に撮ってそれを送り合ったり。『熱のあとに』とは関係ないこともありましたが、視覚としても人物や情景をイメージできたのかなと思ってます。なかなかお互いのことを知っていないと「またこの人から来たよ、連絡が」みたいになっちゃうんですけど、自分の心に響いたもの、感じたものはそうやって全部共有していきましたね。

ーーファーストシーンからお聞きしますが、映画は沙苗が階段を降りる場面から始まります。実際の事件によれば、加害女性は階段を降りる前にマンションの部屋で相手を刺して追いかけたことになっています。ただ、映画では沙苗が階段を降りて追いかけた先に、刺された血だらけの隼人(水上恒司)が倒れている。なぜ沙苗が刺すところを省略されたのでしょうか。

山本 この映画のメインは事件から6年後の話なので、隼人は沙苗にとって過去を象徴するような人物として描きたかったんです。そこには現在の沙苗の思いが作っている隼人という面もあると思って。それを踏まえて刺す場面を描いてしまうと、痛そうという感覚だったり走っている身体だったりを如実に映すことになり、隼人という人物に実体ができすぎてしまう気がしたんです。そういったことを考えて、刺すシーンは今回描かずに撮りました。

ーーシンプルな疑問ですが、この事件を知っている人だと「刺して追いかけている」ことは見て分かると思います。ただ、事件についてまったく知らない人が見た時に、「追いかけたその先に倒れた男がいる」と思いますよね。その後に観客は映画が進むにつれて沙苗が刺したことを理解していくわけですが、そのあたりの描写に関しての話し合いはあったのでしょうか。

山本 なかったですね。ただあのシーンに関しては、決定的に刺したことが分からなくてもいいのかなとは思っています。ここでは「現在から見る過去」を描きたかったので、しっかりと「この人が刺してこの人が刺された」っていう説明はむしろその後に描きたいという想いがあったんです。たしかに沙苗が煙草だけじゃなくて、包丁を持っていた方が分かりやすいんじゃないかという話は脚本の段階でありました。しかし包丁を持っていると、決定的に沙苗が刺したことが分かってしまう。その後に過去を見返すかたちで描くのであれば、むしろ持っていない方がいいんじゃないかと。だからあそこは血だらけで倒れている男性を、ただ見つめている女性としてより強く描きたいと思っていました。包丁を持つことで、それが逆に見つめる行為の妨げになるんじゃないかと思い、そういった描写は避けるようにしたんです。

DSC01526.JPGーー沙苗が階段を上から下に降りてくると、エントランスでは煙草の火に反応した天井のスプリンクラーが発動します。そのまま映画は6年後のお見合いの場面に切り替わりますが、スプリンクラーの運動とは逆に、今度は下から上に沸き上がる庭先の噴水の飛沫が画面上で繋げられます。こうした水の運動の繋ぎは最初から念頭にあったのでしょうか。

山本 スプリンクラーもそうですが、過去と現在を水で繋げることは脚本の段階から想定してやりたいと思っていました。実質的な話になってしまうんですけど、最初はスプリンクラーの下降の動きと合うように、人工の滝が流れているレストランをたくさん探していたんです。結局そういう場所は見つからなかったのですが、その後に沙苗と健太(仲野太賀)が住む白樺湖という観光地も湖のある場所なので、水というモチーフで飛躍する時間軸を繋げたいとは考えていました。

ーー水の他に、星が重要なモチーフとして登場します。星を見つめることは絶えず遠くを見つめることでもあり、それが登場人物たちのまなざしにも繋がっているようにも感じました。

山本 脚本の段階で登場人物ごとにサブテキストをつくっていたのですが、その中で隼人が好きなものが星だったんです。なので星のモチーフに関してはそこから派生しています。健太の台詞で「愛は愛なだけでそれ以上でも以下でもないし、どんな愛だって全部同じだからな」とありますが、これはなんだか星の見え方にも似ているように感じていて、遠くから見るとどれも同じように見える小さな点だけど、近くで見ると大きな固有の存在になる。客観性と当事者性の話にも通じているなと。

ーー星はそのような愛と響き合う関係にありますが、水のある場は愛に敗れたものが還っていくような場所として映し出されていますよね。

山本 たしかにそうかもしれませんね。水のイメージに関して言えば、沙苗は結婚を誰も傷つけなくて済む檻の様なものとして捉えていて、それは波風の立たない静かな湖のイメージと重なっています。しかしその結婚生活に足立が介入することで、湖に足を踏み入れた沙苗は自ら水面を揺らしてしまう。そうした水の動きを通じて、沙苗の感情が表れているのかなと思います。

ーー一方、足立が湖のボートの上で現実の星空を見上げる場面は、彼女なりに辿り着いた愛のかたちを象徴しているように思います。

山本  たしかに足立の視線の先には現実的なものが見えているけれど、沙苗は常に違うものを見ていますよね。もはや現実は見なくていいと思っているのかもしれません。僕も今それを言われてハッとさせられました。
 
ーー本作では、ある種自分なりの哲学を語る沙苗の場面が多く見られます。言わばそれは彼女が語る愛、もしくは「愛とは何か」への応答であり、生きることや死ぬことさえも愛の前ではイコールだと結び付けられます。その中で彼女の過去を聞かされた健太も、車内でふと「殺そうとしたけど、逆に殺されたんだな」と言います。全編を通して沙苗による愛の哲学が前景化しているわけですが、健太自身も彼なりの哲学を持っているのではないかと思いました。

山本 沙苗に関しては自分が思っていることを相手に伝えるのが上手くて、言語化できる人として描きたいなと思っていました。言葉にできないような感情も沙苗はどんどん言葉にして相手に伝えようとする。だけどそれでもやっぱり伝わらないっていうことをしたかったんです。逆に健太は、自分の中で思っていることを上手く言語化することができない。言えないとかじゃなくて、何て言っていいのか分からない人であり、より僕らに近い人物として健太は描きました。でも「殺そうとしたけど、逆に殺されたんだな」というのは、彼自身が哲学的なことを言おうとしているわけではないんだけど、どこか無自覚に核心を突いたことを言っているというか。そういう無自覚さゆえに哲学っぽくなるところが彼の中にあってほしいなとは思ってました。

sub3_netsu.jpgーーまた沙苗と健太の近所に住んでいる足立ですが、最初は彼女も沙苗のように自らの哲学を持っている人物ですよね。例えば幼い息子と家にいる場面では、「ロマンティックだけど非現実的ね」と、まるで大人に語りかけるようにして言い放ちます。ただ、後半にかけては現実に対しての諦念や「現実をバカにしないで」といった台詞からも、どこか地に足を着けているかのような存在にも見えてくる。足立とは、まるで沙苗と健太の中間を彷徨っている人物ではないだろうかと。

山本 足立に関しては最初からすごく掴みどころのない人物として描きたいと思っていました。いろんな側面を持っている人。だからこそ沙苗っぽさもあるし、健太っぽさもあるんだと思います。子どもに理解されなくても自分の言葉で話すことができるし、誰にも合わせずにいることができる。かと思えば表面的なフレンドリーさで健太と楽しく話すこともできる。人付き合いが上手い人なんでしょうね。またこの映画の中では一番趣味も多くて、この人が何に興味があるのかっていうのは一番分かる人です。ただ、分かるけど、多すぎてよく分かんないっていう(笑)。その点で沙苗や健太と違うのは、一番現実的に物事を見ているところでしょうか。足立は愛することを諦めることができる人なので、現実的な側面を持って沙苗を否定していきます。否定されるからこそ、沙苗は現実と過去を見つめ直さなくてはいけない。これは足立が自分の言葉を持っているからできることなんだと思います。

ーー『小さな声で囁いて』もそうでしたが、この『熱のあとに』においても男女関係の不和が描かれています。監督はそうした題材になぜ惹かれるのでしょうか。

山本 いつも男女関係の不和を描きたいと思っているわけではないんですが、なぜか毎回描いてしまっています。不和の状態の方がお互いに思っていることを言い合えるんじゃないかと。これがお互いに歩み寄れる状態だと、言わなくても相手は分かってくれますよね。それはまだ自分の中で描きたいものではないんだと思います。分からないからこそ伝えたい、相手に分かってもらいたいという関係の中でその人のことを知っていく。分かり合えないことも含めて、そういったことに興味があるんだと思います。

ーーそのことに関して言えば、『熱のあとに』は家族制度や婚姻制度そのものに対する疑いを通じて沙苗の愛を擁護している映画だと感じました。例えば、あるシーンで母親といる女の子の声がフレームの外から聞こえてきます。そこでまさに家族というものを感じるわけですが、沙苗が考える愛にはそういった家族的なものは存在しません。また最後のシーンでは複数の車のクラクションが外から聴こえて来たりと、男対女の縮図にとどまらず、どこか沙苗対社会として撮られているように思いました。

山本 まさにそのことはナウォンさんともよく考えていて、沙苗は何かしら社会と対峙していくことのできる人物にしたかったんですね。もちろんそれは愛というテーマが前提にはあるんですが、社会の中で共通する認識に対して、ひとりの人間が対峙していくという物語にはしていきたいなと。家族の話もそうで、彼女にとっての家族は一概に幸せなものとしては言えないわけです。もしかすると彼女にとって家族とは、不幸せなものなのかもしれない。でもそういった中で、彼女はそれでもいいんだと思っている。だから社会における幸せであったり、良しとされるものに対してずっとアンチを唱えていく。それはある意味で妄信的なことなのかもしれないけれど、彼女だけは自分を裏切らず突き進んでいくように描きたかった。だから母親に話しかける女の子の声だったり、急に外から聴こえる音だったり、そういった自分の外側にあるものに対してどのように反発していけるのか。そのことについてはかなり考えて話し合いました。

sub7_netsu.jpgーー本作は主に新宿と長野の二つの拠点を中心に撮影されていますが、事件の6年後に沙苗が定期的に通うメンタルクリニックの場所は、健太と暮らす長野ではなく新宿にあります。この設定にしたのはなぜだったのでしょうか。

山本 法律的に沙苗と隼人は会ってはいけないんですが、どこかに隼人との接点を残しておきたいというのがありました。あと長野から新宿は特急に乗って2時間ほどの距離にあるので、その近さが沙苗の中にある過去との距離にも重なってきて、いつでも過去に戻れてしまう不安定さに繋がるのではないかと。

ーー撮影に関して言えば、アシの林を散策する場面や交番へ向かった後の夜道を歩く沙苗と健太の場面など、自然光や街灯をフレーム内に捉えたショットが印象的です。カメラマンの渡邉寿岳さんとはどのようなプランの元で撮影を進めていかれたのでしょうか。

山本 沙苗に関しては光を当てるのではなく、背負っている側であるという意識は自分の中で持っていました。ただ、細かな光をどのようにレンズに入れていくのかは、渡邉さんと照明の及川凱世さんが事前に考えてくれていたので、二人のお力によるところが大きかったです。

ーービニールハウスやホームセンターの場面などの横移動に関してはドリーを敷いていたと思いますが、夜の街灯の場面では手持ちで撮られていますよね。

山本  横移動で撮りたい場面は事前に相談していました。ちなみに夜の街灯のシーンはレールでも手持ちでもなく、「マグ」という機材を運ぶ台車みたいなものに乗せて撮っています。渡邉さんから「ここはレールみたいにきっちりしていない方がいいし、手持ちみたいにブレてしまうのも違うから」ということで提案された撮り方です。自分も実際に撮れた映像を見て、この揺れ感がけっこう気に入ってます。

ーー編集の大川景子さんとは、どのようにポスプロを進められていったのでしょうか。

山本  まずは大川さんに全体を繋いでいただき、それを1シーン目から二人で見て、話し合いながら調整していきました。編集の中でお互いに気付いたことは、今作では人の声を聞いている相手の顔が多く映っていることです。それは聞いている人の顔を映し出した方がなぜか話されている言葉がすごく入ってくるような感覚があって。人物は思っていることを言葉にしていくけれど、それはなかなか伝わらない。そういうことがこの映画で描きたいことのひとつだったので、要所要所で言葉を受け取る側の表情を見せることが重要だったんだと思います。大川さんの的確な意見を聞きながら、台詞を誰の顔で聞かせていくか考えていく作業はとても大切な時間でした。

ーー映画の中盤とラストになりますが、沙苗と健太は世界が平和になれるひとつの方法として「60秒間、見つめ合う」ことを行います。この行為はどのようにして生まれたものだったのでしょうか。

山本  『熱のあとに』をつくったきっかけは、モチーフとなった事件の公判記録にある当事者の「誰かを愛している」という切実な言葉に触れたことでした。そのことでナウォンさんも「言葉をたくさん書きたい」と言ってくれました。ただ、言葉だけではどうしても伝わらない時に最後は見つめ合うことしかできないのではないかと思ったんです。根本の解決には至らないかもしれないけれど、その時だけは平和になれるかもしれない。言葉は投げかけることで相手を変えて自分も変えようとする側面があるので、もっと相手のことを受け取る行為として見つめ合う方法を選びました。またテレビでニュースを見ているシーンで、健太が「経験していないことは触れちゃいけない気がする」という台詞がありますが、この映画を作っていく過程でロシアによるウクライナ侵攻が始まり、イスラエルによるパレスチナへの弾圧もさらに凄惨な状況になっていきました。今では健太のその言葉が自分に反射するように響いてきます。経験していなくても、語っていかなくてはいけない。そう思うのです。

2024年1月9日、祐天寺
聞き手・構成:隈元博樹、松田春樹
写真:隈元博樹


『熱のあとに』メインビジュアル.jpg熱のあとに
2024年/日本/ヨーロピアンビスタ/127分【PG12】
監督:山本英
脚本:イ・ナウォン
プロデューサー:山本晃久
撮影:渡邉寿岳
照明:及川凱世
編集:大川景子
出演:橋本 愛、仲野太賀、木竜麻生、坂井真紀、木野 花、鳴海 唯、水上恒司
2024年2月2日(金)、新宿武蔵野館、渋谷シネクイントほか全国ロードショー!
©2024 Nekojarashi/BittersEnd/Hitsukisha
公式サイト:bitters.co.jp/after_the_fever
予告編:https://youtu.be/R483B5tML20?feature=shared




DSC01566.JPG山本英(やまもと・あきら)
1991年生まれ、広島県出身。東京造形大学で映画を学ぶ。大学卒業後、映像制作会社で働く傍ら広島に住む祖父を撮影した『回転(サイクリング)』(2015)が第38回ぴあフィルムフェスティバルに入選する。その後、東京藝術大学大学院映像研究科に進学し、映画監督の諏訪敦彦、黒沢清に師事。修了制作の『小さな声で囁いて』(2018)は第29回マルセイユ国際映画祭、第20回全州国際映画祭に正式出品された。商業デビュー作となる本作は第28回釜山国際映画祭ニューカレンツ部門、第43回台北金馬映画祭へ出品され、国外からも注目が集まっている。
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