『ゴースト・トロピック』 『Here』バス・ドゥヴォス監督インタビュー「Refinding normal, refinding everyday」
[ interview ]
現在絶賛公開中の、『ゴースト・トロピック』 『Here』。公開にあわせて来日したバス・ドゥヴォス監督に話をうかがった。
前日に日本に着いたばかりだというドゥヴォス監督。ブリュッセルという都市のダイバーシティ、16mmフィルムで切り取られる夜の闇、目の前にあるのに小さすぎて気づかない苔、名前をつけること、といった話を矢継ぎ早に聞いているうちに、いつのまにか窓の外はすっかり陽が暮れていた。そして、まるで映画の中と同じように、窓ガラスの表面で、外の夜景と内側にいる私たちの映像が重ね合わさるのが目に入り、ふと思う。「ここ」とはいったいどこなのか?それを語る「私」はいったい誰なのか?
©︎ Quetzalcoatl
ーー『ゴースト・トロピック』 『Here』という2作品はどちらともブリュッセルで撮影されていて、この街が両作品ともに重要な要素になっていると思います。『ゴースト・トロピック』ではハディージャ(サーディア・ベンタイブ)が地下鉄を終点まで乗り過ごしてしまいますが、この作品では都市中心部から外れた郊外を撮影地に選んでいるんでしょうか。
バス・ドゥヴォス(以下BD) ブリュッセルの中心部はそれほど広くはないですし、地下鉄の路線も5本だけです。映画でハディージャは、ある路線の終点まで行ってしまって、街の中心から離れてしまいます。ハディージャは街の中心部で働いていますが、もし歩いて戻るとしたら、2、3時間はかかる場所ではないかと思います。
ーー『Here』では緑が豊富な場所が出てきますが、それも中心部から同じくらい離れた場所なのでしょうか?
BD 実は『ゴースト・トロピック』で描かれる街は、ブリュッセル中をつなぎ合わせた、かなり幻想的な街なんです。想像上のブリュッセルと言ってもいいかもしれません。ブリュッセルを知っている人が『ゴースト・トロピック』を見ると、この映画がある場所からある場所へとジャンプしていることがわかります。
それに対して『Here』はとても現実的です。『Here』の緑豊かな場所はブリュッセルの中心部で、本当にビルボールデへと向かう途中の場所で撮影しています。私たちは、実際に彼が車を取りにビルボールデまで行く行程をすべて撮影しました。
ーー両作品ともに移民労働者が大きなテーマになっていると思います。映画を見ると、特定の地域だけに移民労働者が多く存在しているわけではないのだろうと思い、ロケーションについて聞きたかったのです。
BD そうですね。たとえばルーマニア人だけが住んでいる地区、イタリア人だけが住んでいる地区、中国人だけが住んでいる地区などというものがあるわけではありません。人々はどこにでも住んでいます。東京には23の区があるそうですが、それよりはるかに狭いブリュッセルには19の自治体があります。私の住んでいるスカールベークには、大きなルーマニア人コミュニティやトルコ人コミュニティがあり、多くの人が欧州連合諸機関で働いています。また隣の地域も、モロッコ人が多かったり、トルコ人が少なかったりという多少の違いはありますが、いずれにしろ特定の国の人々だけが極端に集中して住んでいるわけではありません。そして欧州連合の機関で働いているような人を移民migrantと呼ぶのには少し抵抗があって、彼らはしばしば国外在住者expatと自称します。
そこにはとにかく多様性があります。そして非常に多くの言語が飛び交います。たとえば日本では、知らない人を見かけたら、おそらくたぶん彼/彼女は日本語を話すだろうと推測できると思います。しかし、ブリュッセルではなにもわかりません。「あなたはどんな言語を使うんですか?私の言っていることはわかりますか?」という最初の一言からコミュニケーションがはじまることがしばしばあります。それはとても美しいことだと思うんです。
ーーこの2作品が16mmで撮影されていることについてお聞きしたいです。監督は過去作もフィルムで撮影されていたのですか?
BD デビュー作の『Violet』(2014)は、一部が65mmで、ほとんどデジタルで撮影しています。『Hellhole』(2019)はすべてフィルムで、80%が35mm 、20%が65mmで撮影をしています。今回公開された2作は、それよりも小さい16mmのフィルムにしました。
ーー監督がフィルム撮影にこだわる理由は画面からも伝わってくるのですが、65mmや35mmから、16mmへという変化は、より小規模な予算で製作するためなのでしょうか?
BD 予算が少なかったことも理由のひとつではあります。今回の2作品はかなり低予算で撮影していたので、35mmを使うことは到底できませんでした。でもそれだけが理由ではありません。『Here』と『ゴースト・トロピック』は、あえて16mmを使っているのです。このふたつの映画に関しては、フィルムのテクスチャーや粒子感を出したいと思っていて、いわば「完璧じゃない」フィルムの質感が合うのではないか、と思ったからです。もし35mmフィルムで撮影する予算があったとしても、やっぱり16mmを選択したでしょうね。
ーー細かいことなのですが、『ゴースト・トロピック』は4:3、『Here』は5:4のスクリーン・サイズで撮られていますね?
BD 撮影監督のグリム・ヴァンデケルクホフと話しながら決めました。『ゴースト・トロピック』は4:3のスタンダードサイズですが、『Here』は5:4という、どちらかというと写真で使用されるサイズで撮影することに決めました。ほんの少し細長いフレームが、親密さを醸しだしてくれると思ったのです。『Here』には、自然の世界がたくさん登場しますが、写真のフォーマットはそうしたものを撮るのに適していますから。
ーー各作品の具体的な点もうかがえればと思います。『ゴースト・トロピック』の冒頭では、陽が暮れていく部屋のショットが映し出されて、そこにナレーションが入りますが、語られる内容はこの映画のハディージャというキャラクターをこえた、別の次元の存在のことのようにも思えます。語っているのは誰なんだろうか、「私」とはいったい誰なのか?と。
BD あの声はハディージャの声なのですが、ハディージャの声ではないと感じた人も少なからずいましたし、そう感じることもよくわかります。「誰が語っているのか?」ということはこの作品全体に通じる問いだと思います。
ーーあの場面はタイムラプスですよね?もしや本当に5分くらいで一気に陽が落ちたのですか?
BD タイムラプスです。アパートにグリムとアシスタントと自分の3人で集まって、日没を1秒間に4フレームずつ撮影し、20分間が3分半のシーンになるように撮影しました。そのあと一回寝て、夜明けのタイミングでまた同じことをやったのですが、完全に自分たちだけでやっていたので、洗濯カゴの位置が微妙に変わってしまったり、ちょっと適当なところがありましたが(笑)。
ーーこの場面ではワンカットで明るい部屋が暗くなりますが、作品全体を通して、カットのつなぎ目での明暗の大きな変化が印象的に使われているような気がしました。
BD まさに、撮影では光を意識していました。それは16mmを選択した理由にもつながります。たとえばハディージャが街灯の下に足を踏み入れるとき、まるで彼女は夜の暗闇に包まれこまれるかのようです。そしてそのときの暗闇は、粒子のせいでほとんど生き物のように見えます。フィルムの粒子は明るいところよりも暗いところで目立ちますから。その闇は生命を持ったキャラクターのようで、彼女の肩をブランケットのように包むのです。それは彼女を怖がらせるのでなく、安心させるのです。
©︎ Quetzalcoatl, 10.80 films, Minds Meet production
ーー物語はハディージャが終電車で眠ってしまうことから展開しはじめるわけですが、『Here』にも居眠りをしてしまう場面があります。あなたの映画にとって、人が眠ることはすごく重要なことのように感じます。BD 寝ることには興味があります。それは人が完全に"不在"になれる唯一の時間だからです。たとえば私たちはソーシャルメディアなどで、世界の反対側とつながっています。こうやって取材を受けてるときでさえ、通知が来たりして気になったりします(笑)。私たちはつねにテクノロジーに囲まれていますが、眠っているときはだけはそこから逃れられます。眠ることや夢を見ることはプライベートなことで、自分自身に対するもっとも繊細で親密な瞬間なのです。ハディージャは公共の場所で寝てしまいますが、それは彼女が安心しきっているからこそだと思います。私はそんな姿をすごく美しいと感じるのです。
ーーハディージャが眠りについた直後、電車のドアがバタンと閉まると同時に音が消えて、彼女は自分だけの世界に入ったかのようです......。
BD ある意味トリック的な見せ方ではありますが、でも本当に彼女はすっかり安心して、夢の世界、あるいは抽象的な場所に行ったのだととらえてもいいと思います。いずれにしても、ドアが閉まり、音が消えて、南国の鳥の音が聞こえてくる。ハディージャが他の世界に行ったことの演出です。
ーー鳥の音はこの場面だけではなく、要所要所で聞こえてきますね。ここではないどこかから聞こえてくるということなんでしょうか。
BD ベルギーは決してトロピカルな気候とは言えませんが、なぜかどこの公園にも鮮やかな蛍光グリーンの小さなインコがたくさんいます。一説には、誰かが飼育していたものが逃げて、繁殖したらしいということです。インコは何百羽という単位でどこの公園にもいて、その声がとてもうるさいのです。実際にはその音をみんな嫌がっていて、迷惑な存在になっているのですが、映画では、遠くの方から聞こえてくる声として、しかも美しく聞こえるようにズルをしました(笑)。ですから、実はファンタジーな音というわけでもなく、ベルギーではありふれた音なんです。
ーーそれは意外でした!ベルギーはトロピカルではないとおっしゃいましたが、この映画では、街角にヤシの木の広告が掲げられていて、ショッピングセンターにはオウムがいます......。
BD もちろんそんなトロピカルなものが現実のベルギーに溢れているわけではないですよ(笑)。「見知らぬどこかへGet lost」と書いたヤシの木の広告は旅行の宣伝で、「遠くの亜熱帯の場所に行って、時間や自分を忘れてみよう」というくらいの意味です。そんなポスターをあの場面に置いたのは、私がいつも、夢見ることや、自分がいないどこか他の場所について考えているからでしょうね。だから「トロピカルな空間」というテーマを持つこの作品が、最後にどこか遠い場所に行き着いて終わるのは、ほとんど論理的なのかもしれません。あのシーンで私たちが見るものは、夢なのかもしれないし、現実なのかもしれない、思い出かもしれないし、娘が将来行き着いた未来なのかもしれない。そうした夢と現実の狭間についてずっと考えていました。ブリュッセルの寒く暗い冬の夜を写し続けた映画が、亜熱帯の島で終わるのはいいんじゃないかと思ったんです。
ーー夢と現実の狭間という表現で思い出してしまうのは、この作品のカメラのことです。道路を映した移動撮影のシーンがありますが、カメラポジションが人の目の高さよりも高い。これを見ているのは誰なんだろうか、と。
BD そのシーンは、スタビライザー付きマウントを車につけて撮影しました。ジープなど背の高い車ではなく普通の乗用車の上につけて、人間の目線よりやや高いぐらいのポジションにしました。たとえば夢を見て、少し宙に浮いた感覚のような。リアルな人間の視点ではない、そう、ゴーストの視点とでもいうか。
©︎ Quetzalcoatl, 10.80 films, Minds Meet production
ーー監督の作品では、あまりひんぱんに切り返しによって人物の顔を交互にとらえることをしていないかと思います。しかし『ゴースト・トロピック』でも『Here』でも、ここぞという場面で切り返しが使われていますね。BD そうですね。でも別に「カットを割らない」というルールを課しているわけではありません。切り返すことによってなにか得られるものがあれば切り返しますし、ないのであればワンショットで撮影します。より興味深くなる、より近く、より親密になる、とにかくなにかもっとよくなりそうなときに、カットを割ります。
カット割りは、セットやロケーションを考慮しておこなっています。たとえば『Here』のシュテファン(シュテファン・ゴタ)がソファで寝ているシーンでは、引きしろがないため、必然的に寄りから入っています。そういったカット割り(デクパージュ)は、セットごとに考えて撮影しています。ですから、「長回しをしなくちゃいけない」とか、そういったことはありません。それに編集の問題もあります。テンポやリズムのバランスに関しては、撮影現場だけではわかりません。長回しで撮影してうまくいったと思ったけれど、編集室に入ってみたら「ショットがスロー過ぎたな」ということもあります。テンポやリズムに関しては、編集のディーター・ディーペンダーレと話し合って決めています。
ーーふたつの作品に共通して、ガラス越しに部屋の中を撮っていて、部屋の中にいる人の姿と反射した街の夜景がガラスの表面で重なる場面がありますね。あなたの映画の中にはさまざまレイヤーがありますが、外側と内側が表面で重なり合う映像がそのことを極めて視覚的に示している気がします。
BD 人はしばしば、あまり深く考えもせずに、パブリックな空間とプライベートな空間を区別している気がします。でもいま指摘されたショットでは、その両方が同時に見えるのです。つまり、外の世界を映すことは、プライベートな空間を見せることでもある。反対に内側を映すことは、外の世界を映し出すことでもある。たとえば、『ゴースト・トロピック』のオープニングではプライベートな空間である室内が映されていますが、そこに人はいなくて、音もしません。でも外で鳴っている音が聞こえて、外から届く光が空間を変化させます。逆にハディージャが居眠りをしてしまうシーンでは、パブリックな空間の中で、ハディージャは眠るというプライベートな行為を行う。すると今度は、遠くで鳥の音が聞こえてきたり、外の世界が彼女のプライベートな空間に入ってくるのです。
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ーー『Here』では苔が重要な役割を果たしていますね。とても象徴的な存在に思えます。なぜなら苔の存在を我々は普段気にも留めず、あえて見ようともしないけれども、いったんその存在を意識すると、実は我々はその中で暮らしているということに気づく。いたるところにあって普通に存在しているものなのに、普段気づいていないもの、それに気づかせることこそ、まさに映画の役割だと思うんです。BD おっしゃる通りだと思います。「普通に存在しているものに気づかせてくれる」という言葉はすごくいい表現だなと思いました。一般的な映画、たとえばスーパーヒーロー映画でも、銃で撃ち合うアクション映画でも、エイリアンが出てくるSF映画でもいいんですが、すごいスペクタクルや普通ではありえないものを描いている作品も多いです。でも私たちはあまりに気が散ることが多すぎる世界に住んでいます。ここへ来る途中も、話をしたり、電車の座席に座る女性を見たり、SNSをチェックしたり、スマホの道案内を見たりしながらやってきました。そんな世界では、目の前にあるものを見るのがすごく難しいのです。顔のすぐ近くにあるものに注意を払うことが難しいんです。ですから、私にとって、映画をつくることの中心にあるアイディアは、私たちのすぐ目の前にあるものに価値を与えるということです。たとえば「最後にはスーパーヒーローが勝つ」などというわかりやすい物語よりも、「人間とはなにか」「だれかと出会うとはどういうことか」といったことの方がずっと興味深いのです。だから、あなたが言った「普通を再発見するrefinding normal」「日常を再発見するrefinding everyday」という言葉は、本当にいいフレーズだと思います。
ーーシュシュ(リヨ・ゴン)がシュテファンに苔の名前を教えることによって、ふたりの間に親しみが生まれます。でもその一方で、シュシュが登場するときのナレーションでは、彼女は物の名前を忘れてしまいます。そしてそのことを通じて、彼女は世界との一体感を感じる。『Here』において名前は複合的な意味合いを持っているように思いますが、そのことについてお聞かせいただけますでしょうか。
BD この映画は、言語をモチーフにしています。はじめにも言ったように、言語はブリュッセルにおいて重要な事柄です。またそれだけではなく、もっと一般的に人間にとって言葉や名前は非常に重要です。それは「出会い」に必要なものだからです。いまこの場で私たちは「出会」っていて、あなたが日本語で言った質問が通訳されて、自分がつたない英語で答え、それがまた通訳されて、というやりとりでお互いに理解しています。同じことを言っていても、その過程で意味がちょっとずつ変わっていると思いますし、違う言語で考えればまた違った響きを持ちます。つねにそうした変化の中で人は互いに理解していると考えるのは素晴らしいことです。そこではつねに、領域や空間をめぐる折衝が行われているのです。私たちは互いに発見しあうために言語を必要としている。
言語は極めて人間的なものです。動物には、木を「木」と、植物を「植物」と名づけることはできません。彼らにとって建物も人間もゴミ箱も、同じひとつのものです。ものに名前をつけるのは人間だけができることで、だからもし人間が言葉を失ったときにどんな状態になるのだろうかということを考えていました。それがシュシュがモノローグで語るような、万物と一体になった、ある意味で動物的な状態です。
人間は名前をつけることで親密さを感じます。もし私たちが森の中にある木の名前を全部知っていたら、森の中を歩く意味合いも、歩く速度も、たぶん変わってくるんじゃないでしょうか。でも名前をつけることがすごく美しいことである一方で、世界に存在するために名前を持たなければならないということは、少し寂しいことでもあると思います。名前は私たちを引き離します。そのことが人類を、世界の中に(in)存在させる代わりに、世界の上に(above)存在させている。その両方の側面が『Here』にはあると思います。名前を付けることの重要性、その美しさ、その親密さ、でももしかすると、本当につながるということは名前なしで行われるのかもしれないということ。
ーー名前について非常に感動的なお話だったのですが、名前と言えば最後にどうしても聞きたいことがあります。あなたの作品のエンドクレジットでは、「A film by」という文字が出たあと、いっせいにこの映画に関わった全員の名前が出ますよね。
BD 「A film by バス・ドゥヴォス」と表記してしまうと、映画の本当に一部だけを見せることになってしまいます。自分もこのクレジットの見せ方はすごく好きです。同時にすべてについて語る。そもそも映画はグループワークだし、それに関わる全員がフィルムメーカーです。衣装を担当している人は、衣装をつくっているんじゃなくて、映画をつくっているんです。撮影監督は映像をつくってるんじゃない、映画をつくっているんです。俳優もフィルムメーカーです。みんなが映画をつくっているのが映画であり、そのみんなに対して感謝を示す方法として、こうしたクレジットにしています。これは1作目をつくったときから、ずっと一緒の方法です。
2024年2月1日、渋谷 聞き手:結城秀勇、荒井南 構成:結城秀勇、板井仁 通訳:有田浩介
©︎ Quetzalcoatl, 10.80 films, Minds Meet production
『ゴースト・トロピック』監督・脚本:バス・ドゥヴォス
撮影:グリム・ヴァンデケルクホフ
音楽:ブレヒト・アミール
音響:ボリス・デバッケレ
キャスト:サーディア・ベンタイブ、マイケ・ネーヴィレ、ノーラ・ダリ、シュテファン・ゴタ、セドリック・ルヴエゾ
2019年/ベルギー/4:3/84分/16mm→DCP
配給:サニーフィルム
©︎ Quetzalcoatl
『Here』監督・脚本:バス・ドゥヴォス
撮影:グリム・ヴァンデケルクホフ
音楽:ブレヒト・アミール
音響:ボリス・デバッケレ
キャスト:シュテファン・ゴタ、リヨ・ゴン、サーディア・ベンタイブ、テオドール・コルバン、セドリック・ルヴエゾ
2023年/ベルギー/5:4/83分/16mm→DCP
配給:サニーフィルム
バス・ドゥヴォス(Bas Devos)
1983年生まれ。ベルギー・ズーアーセル出身。長編第1作『Violet』が2014年ベルリン国際映画祭ジェネレーション部門で審査員大賞を受賞。続く長編第2作『Hellhole』も2019年の同映画祭パノラマ部門に選出。長編3作目『ゴースト・トロピック』はカンヌ国際映画祭監督週間に正式出品された。最新作『Here』は、2023年のトロント国際映画祭やロッテルダム国際映画祭などに出品されたほか、ベルリン国際映画祭エンカウンターズ部門の最優秀作品賞と国際映画批評家連盟賞(FIPRESCI賞)の2冠に輝くなど、国際的な関心を集めつつある映画作家のひとりである。