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February 22, 2024

『熱のあとに』山本英
松田春樹

[ cinema ]

sub4_netsu.jpeg 階段を駆け下りる女の足元から映画は始まる。その足元は半ズボンにサンダルで、部屋着で飛び出してきたままの勢いであることが分かる。次のショットでは、下着姿の金髪の男がエントランスの床に血塗れで横たわっている。奥の扉が開くと、そこから階段を駆け下りてきた女が現れる。フルサイズであらわになる女の白いTシャツは血に赤く染まっており、この二人の男女の間に一体何が起きたのか、明確なことはすぐには分からない。女は横たわる男を見下ろしたまま、おもむろに手元の煙草に火をつける。すると、そこから湧き立つ煙が天井にあるスプリンクラーの感熱体に反応してしまい、吹き出した水が二人の頭上に降りかかる。まるで自制の効かなくなったスプリンクラーのように、女はふつふつと内側から込み上げてくる笑いを堪えることができないでいる。
 6年後という字幕とともに、画面いっぱいに湧き上がる水。ガラス越しに映された噴水はスプリンクラーの下降のイメージとは逆に上へと向かっている。カメラがゆっくりと室内へ向きを変えると、そこにはお見合いをしている冒頭の女=沙苗(橋本愛)がいる。高級ホテルのカーテンとテーブルクロスの白さは冒頭の赤い血の色と見事なコントラストをなしており、打って変わって「幸福」をイメージさせる。だとすれば、編集点となった水の下降から上昇へのイメージの移り変わりは、彼女の人生の転機を祝福するものとして映るようにも見えてくる。しかし、沙苗の様子はどうだろうか。彼女の対面にいる男が、冒頭で床に横たわっていた男とは別人であることはその短髪と黒毛からすぐに分かる。だからなのか、映し出される沙苗のクロースアップに表情はなく、彼女はどこか遠くの一点をただ見つめている。一方、このごく普通のサラリーマン風の男=健太(仲野太賀)は銀行の役員らしいのだが、初対面の沙苗を「死んだ目」呼ばわりしたり、目の前のロブスターを海老と誤ってしまったりして、この場に真剣に来ている男とは思えない。心ここにあらずの沙苗と軽薄な素振りの健太からはお見合いを成立させようという気は感じられず、そうした二人の愚直な性分こそが、かえってこの場の二人を惹き合わせているように思える。その後、健太が沙苗をドライブに誘い、互いが何者であるかを話し合っていく。その車内で健太は実は友人の身代わりで来ているのだと言い、そして沙苗は過去に人を刺したことがあると告白する。
 次のシーンで沙苗と健太はいつの間にか結婚していて驚く。山間にあるペンションを改装して、そこに住まう二人は幸せな夫婦そのものだ。一体二人の間に何があったのか、省略された時間のことは誰にも分からない。むしろ、お見合い後の車内で交わされた二人の対話は、互いに率直であるがゆえに噛み合わないものではなかったか。愛が高じて人を刺すという行為を、あまりにも世間的な視座を持つ健太が理解できるはずもなかった。しかし、沙苗はこれ以上誰も傷つけないならばと、彼女の言葉を借りれば、自身を「檻の中に入れる」ように健太を結婚相手として選んだのだろうか。そして健太がたまたま、そうした彼女を許容できる人間であったというだけのことなのだろうか。ただ一つ言えることは、二人を乗せた車がトンネルの先の眩い光の中に消えていったときに、言葉では相容れない二人は奇しくも同じ方向を向いていたということだ。
 しかし、「檻に入った」はずの沙苗は過去の愛を捨てきれずにいる。カウンセリングで訪れる新宿では、つい過去の男の幻影を追いかけてしまう。精神科医の藤井(木野花)との対話においては、健太への愛が「表向きに過ぎない」と語り、「こういうほのぼのとしたものを愛と認めてしまって悲しくないのかな」と結婚という一般的な愛の形に対して懐疑的な態度を見せる。では、沙苗の信じる愛とは一体どういうものだろうか。「当時の自分にとって、生きることと死ぬことは、そこまで変わらなかった」、「すべてを捧げるからこそ愛は永久不滅で......」という彼女自身の言葉を手がかりにするなら、それは生死に関わるものだろう。学生時代の沙苗が初恋を成就させようと、手に彫刻刀で線を掘った行為はある種自己犠牲の精神に近く、あるいは反対に、愛が高じて過去の男を刺した行為はまさに心中に他ならない。つまり、沙苗にとっての愛とは自他共に死に近づくことであり、それはまさに幸福な家庭像を是とする世間=社会からは見放された狂気の愛に他ならない。
 狂気の愛を前にして、夫の健太は常に消極的な身振りを行うことしかできない。ある事件のあと、錯乱した沙苗がまさに湖へと歩みを進めていく中で、健太は死に向かう沙苗を引き止める。健太は沙苗のそうした死への接近を理解することができず、ただ「お前らの言う愛なんて偉くないからな」と言う。しかし、自己の中に明確な答えを見つけることができない健太は次第に沙苗の狂気を自らの内に転移させていく。居酒屋で友人たちと飲んでいるとき、健太はカウンターで家庭の生活費の愚痴をこぼしている見知らぬ女性に対し、「そんなんじゃ何も解決できねぇんだよ!」とわけも分からず激昂してしまう。世間の認識と沙苗の狂気との間で板挟みになった彼の口からこぼれ出た叫びは、言語化することのできない熱のようなものとして我々の心に響く。
 犯してもいない罪を自首する沙苗に対する警察の対応。暗闇の中での「なんか怖いこと話してる」という少女の声。ラストシーンにおける無数のクラクションは沙苗の声をかき消そうとする社会の抑圧そのものであり、それは現世に蔓延る忌々しい家父長制への記憶と結びついている。だから沙苗は、たとえそれが他者には理解されないものだとしても、愛を言葉にすることをやめない。『熱のあとに』が成し遂げようとするのは彼女に愛について存分に語らせることであり、それを社会的な理解へと結ぶことなく、他者とは相容れない領域の分からなさを分からなさとして探求することである。狂気的な愛についての言葉に映画のすべてを賭けるとともに、これほどまでに美しいセリフを編んだ脚本家イ・ナウォンの仕事があまりにも素晴らしい。

全国ロードショー中

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