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February 28, 2024

『作家主義以後 映画批評を再定義する』須藤健太郎
鈴木史

[ book , cinema ]

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 本書ほど、書き手の揺らぎを隠そうとしない映画批評の書籍も珍しい。
『作家主義以後――映画批評を再定義する』には、2017年から2023年の半ばにかけて著者・須藤健太郎により多様な媒体へ寄稿された映画評のほか、講演録や対談が収録されている。本書での須藤は映画を語るにあたって自身の戸惑いや不安を隠すことがない。しかしそれらの戸惑いや不安は須藤の判断によってそこに残され、読者の前に示されてもいる。つまり須藤は、この書籍を通読していくことを通して読者が書き手の揺らぎを共有し、書籍の副題となっている「映画批評を再定義」する試みに並走してくれることを要請しているのだ。それはあたかも「映画批評家」とは、全面的に盲信したり、逆に徹底的に反抗したりするべき揺るぎない存在ではなく、揺らぎのあるひとりの人間にすぎないことを思い出させようとしているかのようである。その意味で本書は、中盤に置かれた「片思いのこと」というテクストで触れられているロラン・バルト的な書物であると言うことができるが、例えば「作者の死」というような言葉を持って「作家主義以後」という言葉を考えようとすると、本稿筆者自身も戸惑いと不安の繰り返しに囚われてゆきそうなので、ここではむしろ、なぜいま須藤がその揺らぎを示さなければならなかったかということに目を移したい。
 須藤は「歴史」と自己の関係に強い関心があるように思える。

「その二人を前にしてようやくわかったが、自分の関心はまずはっきりと歴史にあった。その歴史と自分はどう関係を取り結ぶのか、またどのような関係を取り結ぶべきなのか。そもそも関係を築くことはできるのだろうか。」(338頁)

 これはジャン・ドゥーシェをめぐる鼎談のあとに、鼎談の相手だった廣瀬純と岡田秀則のドゥーシェへ向ける関心の在り方に対して、「果たして自分は?」といった調子で須藤が漏らす感慨だ。また、本書の「序」は、須藤が山田宏一の『友よ映画よ、わがヌーヴェル・ヴァーグ誌』を繰り返し読んでいた頃の個人的なエピソードで始まっている。そこでは「私はここに描かれたシネフィルたちに憧れたからこそ、フランス語の勉強をし、パリに留学することを目指したと思う」ということが些かの衒いもなく書かれ、そして『カイエ・デュ・シネマ』の同人だった山田が五月革命の動乱の最中、ゴダールやトリュフォーといったこれまで仲良くしていた友人の輪の中に自分がいないことに気づき、「私」は「彼ら」の一員ではないと悟ってゆく断絶の感覚にこそ心を寄せたのだということが書かれ、帯を飾る「批評はいつも孤独から始まる」という思いに辿り着く。ここでの「孤独」とは、「歴史」を意識してきた人々の宿命だろう。山田宏一の『友よ映画よ、わがヌーヴェル・ヴァーグ誌』には、「ヌーヴェル・ヴァーグとは、ノスタルジックな世代の映画であり、映画とはなにかを考えこまざるを得なかった不幸な世代の映画なのであった。」(平凡社ライブラリー 282頁)とあるが、本書『作家主義以後』もあらゆる作家、あらゆる作品をめぐりながら、過去の「歴史」と自己の分断という主題が繰り返されている。しかし須藤は、映画をめぐる「歴史」そのものが、絶えざる分断を繰返すことによってひとつづきであるという逆説を素描しようとしているようにも思える。
 さらに須藤は「歴史」と自己という縦軸の分断に加え、4章「映画時評の方へ」での語り口に顕著なように同時代的な横軸の分断にも気を払っているように思える。世界全体の映画をめぐる状況を見ても、人種、宗教、民族、ジェンダー、セクシュアリティーなど、あらゆる「諸問題」に分断線が引かれ、それを再統合する試みが行われている。そしてそれ自体が、人々の自己を揺るがしてもいるのであり、本書について言えば、「歴史」に立ち向かう自己という縦軸の構図に、現代的な「諸問題」として横軸の分断がさらなる衝撃を加え、自己はますます揺らいでゆくという格好になる。
『友よ映画よ、わがヌーヴェル・ヴァーグ誌』のシネフィルたちに憧れフランスまで飛び立ってしまった、ある種典型的な日本的「シネフィル」と名指されかねない須藤は、そうした縦軸と横軸の分断の隘路に立たされているようにも思える。だからこそ本書の文体には須藤の揺らぎが滲んでいなければならないし、そしてそのことによって、文体や自己すらもバラバラに解きほぐしていきながら、「映画批評を再定義」しようとしているのではないか。その姿は「自立した個人」や「近代的な自我」といったものがときに覆い隠してもいた先述の「諸問題」としての分断線に、揺らぎを携えながら向き合っているようでもある。
 本書を通読することによって見えてくる、絶えざる分断の繰返しによってすべてがひとつづきであるという地点は、「シネプラスティックとその彼方」というエリー・フォールにまつわるテクストにもっとも強く見て取れる。そこで須藤はフォールのテクストについて、

「フォールは毎回異なる比喩に頼りながら、「形態」と「精神」を幾度となく言い換えていく。文体にはおのずと循環と反復が宿り、ほとんど同じ主張が一行ごとに繰り返される。」(120頁〜121頁)

と語り、さらにこう綴る。

「精神は、形態と形態とのあいだに間違いなく存在している。ところがそれは見ることも捉えることも叶わない。なぜなら精神は形態とならないかぎり、精神ではない。しかし、形態となったとたんに精神ではなくなってしまうからである。そうした性質を持つ精神を記述するほとんど不可能な矛盾に満ちた試みのことを、彼は「詩人の使命」と名づける」(122頁)

 引用されているフォールの文章は、各センテンスをクロースアップで読めば独立したことが語り口を変えて繰り返されているが、その十数行の引用文をロングショットで見れば、その文章の一塊自体に何らかの「精神」が流れていると言えるだろう。須藤はどうもそのようにして、本書という一冊の書物を通じて映画や映画批評に流れる何らかの「精神」を素描し、その痕跡を残そうとしている。1920年代の映画を巡る言説まで遡り「精神」を示そうとする須藤の在り方は、本書の冒頭に掲げられた芭蕉の句や、表紙を飾る『アタラント号』(ジャン・ヴィゴ、1934)のミシェル・シモンのようにどこかドン・キホーテめいている。しかし実のところ、そうしたドン・キホーテぶり以上に、本稿筆者が本書での須藤の揺らぎを湛えた手付きを前にして感じるのは、『寝ても覚めても』(濱口竜介、2018)について触れた本書の論考「マヤは誰を演じているのか?」で、登場人物のマヤについて須藤が語るときの「気遣いの人」、「気配りの人」という印象だ。須藤はマヤを「「自己」と「他者」という両立不可能なものを自分の身体で引き受けている」(141頁)と書き、さらにこう綴る。

「まわりに配慮して他人を優先すること、そして自分の思い通りに振るまわないことは、ある意味では「別の何かになる」ことだろう。亮平は自分も気遣いの人だからこそ、マヤの気配りがはじめは気に掛かってしまう。だがマヤにとって、それは「自分が自分のままでいる」ことと、自分が楽しむことと矛盾しないのだ。いやむしろ、「自分が自分のまま」でいなければ、「別の何かになる」ことなどできないように、自分が楽しくなければ他人を思うことなどできない。」(142頁)


『作家主義以後 映画批評を再定義する』

須藤健太郎=著
出版社:フィルムアート社
四六判・並製|448頁|本体:3,700+税|ISBN 978-4-8459-2318-2
――批評はいつも孤独から始まる。
ひとつの映画作品を問うことにおいて、映画そのものの存立を問う、その終わりなき営みとしての「映画批評」の可能性。『評伝ジャン・ユスターシュ』の俊英による、実験゠実践の記録。