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February 29, 2024

『瞳をとじて』ビクトル・エリセ
中村修七

[ cinema ]

★sub1_撮影中のふたり_@ManoloPavon.jpg 何しろビクトル・エリセの31年ぶりの新作長編なのだからと心して劇場に足を運び、上映が始まって10分も経たないあたりだと思うが、スクリーンを見ていて何やら奇妙だぞと感じていた。それは、映画内映画『別れのまなざし』において、撮影途中で失踪した俳優フリオの演じる男が老齢の男と会話するシーンでのことだ。背の低いテーブルを挟んで2人の人物が向かい合うショットが繋げられているのだが、老齢の男が正面よりやや右寄りの斜めから撮られたショットなのに対し、フリオは真正面から撮られたショットとなっている。不釣り合いな切り返しであるため、見る者としては奇妙だと感じざるをえない。そして、フリオを真正面から撮ったショットに繋がれるべき何らかのショットがあるのではないかとの予感を抱く。それは、人物を真正面から撮ったショットでなければならない。ならば、それは誰を真正面から撮ったショットなのか。そのようなサスペンスを持った映画として、僕は169分の長さを持つ『瞳をとじて』を見た。なぜフリオを真正面から撮ったショットをそこまで特別視するのかと問われるかもしれないが、この問いに対しては、そのショットには何やら穏やかではないものが漂っているからだと答えるしかない。
 この作品で描かれるのは失踪した俳優のフリオを映画監督のミゲルが探す物語であり、その過程でミゲルは旧友を中心として様々な人物たちと会って話をする。そのため幾つもの会話シーンがあり、人物を捉えたショットの切り返しが用いられているのだが、それらにおいて真正面から人物を撮ることは避けられており、やや斜めの位置から撮られていたと記憶している。だからこそ、映画内映画『別れのまなざし』でフリオを真正面から捉えたショットの特異性は際立っている。
 ある人物を探す探偵小説めいた作りが『瞳をとじて』でも映画内映画『別れのまなざし』でも共通していることについては、ホルヘ・ルイス・ボルヘスの言葉を引用しておくべきかもしれない。『別れのまなざし』に現れる屋敷の名前「トリスト=ル=ロワ」はボルヘスの短編探偵小説「死とコンパス」に由来するのだが、彼は、「混沌とした現代にあって、慎ましやかではあるが、古典的な美徳を今も保ち続けているもの、それが探偵小説なのです」と述べていた(『語るボルヘス 書物・不死性・時間ほか』、木村榮一訳、岩波文庫)。「慎ましさ」と「古典的な美徳」は、寡作なエリセの作品が常に保持しているものだ。
 『瞳をとじて』における、やや複雑な時制は次のようになる。映画内映画『別れのまなざし』の舞台はスペイン内戦が終了したのちの1947年とされ、その撮影は1990年になされたとされる。また、『瞳をとじて』自体は2012年の時点を舞台としており、その製作年は2023年だ。したがって、『瞳をとじて』には約80年に及ぶ歴史が詰まっているわけだ。エリセは、処女作から一貫してスペイン内戦後に生きる人物を繰り返し描いてきたことにも触れておくべきだろう。1940年を描く『ミツバチのささやき』(1973)では、共和派と思われる脱走者と少女が出会い、体制派によって脱走者は射殺されていた。1957年とそれ以前を描く『エル・スール』(1983)で、主人公の父親は内戦における立場の違いを理由として自身の家族と決別していた。そして、『瞳をとじて』において、映画内映画『別れのまなざし』でフリオが演じるのは内戦を共和派として戦い敗北した男であり、ミゲルとフリオは内戦後の独裁体制下で反体制派として活動したことが仄めかされている。
 ふと、次のような妄想じみたことを考えてしまう。それは、『瞳をとじて』に登場する人物たちが『ミツバチのささやき』を見たことがあるのではないかというものだ。フィクションの登場人物たちだとはいえ、ハワード・ホークスやニコラス・レイやカール・テオドア・ドライヤーを話題にする、ミゲルたちスペインの映画人が1970年代に公開されたエリセの作品に無関心であったとは思えない。内戦後の時代を生きる人物たちが登場する『ミツバチのささやき』を見た彼らは、そこに自分のことが描かれていると感じたのではないか。そして、『瞳をとじて』を見て、ここには自分のことが描かれていると感じる人は、スペインのみに限らず、多くいるのではないか。なぜなら、『瞳をとじて』が取り上げるのは、歴史と人生と映画との関係だからだ。『瞳をとじて』には、登場人物たちの人生ばかりでなく、スペイン内戦以降の歴史や、31年ぶりの長編新作を完成させたビクトル・エリセ自身の人生や、フィルムからデジタルへと移行する映画史が詰まっているように思う。『瞳をとじて』ほど、歴史と人生と映画が緊密に結びついた作品を他に知らない。辛うじて思い浮かぶのは、テオ・アンゲロプロスの作品くらいだ。
『瞳をとじて』におけるサスペンスに話を戻すと、ここにあるのは、『別れのまなざし』のフリオを真正面から捉えたショットと繋げられるべきショットをめぐるサスペンスばかりではない。他にも、失踪した後のフリオはどうなったのかというサスペンスがある。さらに、映画内映画『別れのまなざし』におけるサスペンスがある。フリオが演じる男は、老齢の男から、生き別れになって今は中国で暮らす娘を自分のもとに連れてきてほしいとの依頼を受ける。その返礼として彼に提示されるのは、彼自身にも生き別れた娘がいることから、その娘との再会だ。ここで、フリオの演じる男は依頼された娘を探し出し、彼自身の娘とも再会できるのだろうかというサスペンスが生じる。こうして、『瞳をとじて』には三重のサスペンスが形成される。
 これらの三重のサスペンスは、驚くべきことに、最終盤で一挙に解消される。冒頭と同じく再びスクリーンに映し出された映画内映画『別れのまなざし』のフリオを真正面から撮ったショットは、この人物でしかありえないと思わされる人物を真正面から撮ったショットと繋がれる。その時、失われていた記憶は呼び覚まされ、娘との再会が約束されるだろう。観客が目にするのは、人物を真正面から捉えた2つのショットに過ぎない。けれども、2つのショットが繋げられることによって、いかに大きなものが生み出されていることか。このことに驚異を感じないではいられない。
 では、瞳をとじることとは何なのか。『ミツバチのささやき』のアナ・トレントは瞳をとじて「私はアナよ」と精霊に呼びかけていたが、そこには、内戦の記憶を想起し、内戦で命を落とした者たちを哀悼し、独裁体制の下にあっても敗北者たちが抱き続ける希望を召喚しようとの思いが込められていたはずだ。同じように、『瞳をとじて』では、登場人物が瞳をとじることによって、過去を想起し、失われたものを哀悼し、微かに残されていた希望を召喚する。『瞳をとじて』は想起・哀悼・召喚の映画だと思う。

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