ダニエル・シュミット『デ ジャ ヴュ』デジタルリマスター版
山田剛志
[ cinema ]
映画は、主人公であるジャーナリスト・クリストフが男と並んで、過去のニュースフィルムを見るシーンから幕を開ける。トップシーンを構成するのは次の3つの映像である。17世紀スイスの革命家・イェナチュの肖像画と亡骸、彼の墓を発掘した人類学者トブラーの姿を捉えたスタンダードサイズのモノクロ映像。横並びになった二人の男が画面外に視線を注ぐヨーロピアンヴィスタサイズのカラー映像。持続する音声(トブラーの語り)は、レベルを異にする二つの映像をつなぐ蝶番の役割を果たすことで、両者が見る/見られる関係にあることを示唆する。続く第3の映像は、モノクロ映像が映し出されたスクリーンを画面いっぱいに捉えつつ、トラックバックによってスクリーンを見上げる二人の男の背中をフレームに収めることで両者の物理的位置関係を明らかにするテクニカルなショットである。映画はその後、イェナチュの死の真相を追うクリストフが取材の過程で在りし日のイェナチュと遭遇する既視体験(デ ジャ ヴュ)を繰り返し描くことになるが、過去と現在、異質な二つの時間の交錯を描くにあたっても基本形となるのは、過去の出来事を捉えたショット、それを見るクリストフを捉えたショット、両者を同一フレームに収めたショットというトップシーンを構成する3種のショットである。
初めてクリストフが既視体験に見舞われるのは、イェナチュが政敵・ポンペイウスを殺害したリートベルク城でポンペイウスの末裔である中年女性との対話を終えた後、帰路の途中に立ち寄った山小屋においてである。クリストフが上着のポケットをまさぐると、先立つシーンでトブラーが保持していたイェナチュの遺品である真鍮の鈴が出てくる。鈴を鳴らすと、それに呼応するように、シャリーン、シャリーンという別の鈴の音がクリストフのバストショットに被さり、カットが変わると17世紀の光景が視界に広がる。イェナチュのクローズアップで締め括られるこのシーンは、過去を捉えた映像とそれを見るクリストフのクローズアップの切り返しによって構成されており、2つの映像は音声(鈴の音)の媒介によって滑らかにつながっている。トップシーンの画面構成を踏襲しているこの場面でクリストフは、眼前に展開する「演劇」を鑑賞するかのようにして17世紀の出来事を目撃する[註]。以降、映画は演劇的な枠組みを逸脱し、過去と現在は相互に浸透し始めるのだが、その上で重要な役割を果たすのは、両者を同一フレームに収めた第3のショットに他ならない。それは過去と現在の相互浸透を表現すると同時に、ゲームの規則を変化させ、クリストフの「見ること」への欲望を炙り出していく。
ターニングポイントとなるのは、酒場で物思いにふけるクリストフが外に出て、耳元で鈴を鳴らすアクションを契機に生起する2回目の既視体験である。坂を駆け上がる足音に導かれるようにして怪しげな小屋に入り込んだクリストフは、そこでイェナチュとその一味が敵対者に拷問を加えるおぞましい光景を、赤い幕に身を隠しながら、やはり「演劇」を鑑賞するようにして目撃する。ここで見落としてはならないのは、クリストフのクローズアップに続くショットが、彼の背中から始まっているという点である。カメラは右にスライドし、クリストフの身体をフレームから外すと、前進移動と上昇運動、さらにはズームアップを駆使して、空間をまさぐるように浮遊する。トップシーンを構成した第3のショット(スクリーンに向けられたカメラがトラックバックによって主人公の背中をフレームに入れ込む)と対になっているこのショットは、言うまでもなくクリストフの視線に従属してはいない。クリストフの身体から離れて、17世紀の光景を舐め回すように徘徊するレナート・ベルタによるカメラの運動は「もっと見たい」という彼の欲望そのものに従属しているように感じられるのだ。このシーンはクリストフがその場から逃げ去ることで幕を閉じるが、彼のリアクションは、眼前の光景に恐れをなしたというよりも、自身のうちに芽生えた「見ること」への欲望に対する戸惑いを表現しているように映る。
イェナチュによるポンペイウスの殺害が描かれる3回目の既視体験で、またしても鈴の音をきっかけに出来したイェナチュとその従者たちは、クリストフを正面から捉えた画面の右部を占める大きな鏡に身を押し込むことで同一フレームに収まる。それまで過去と現在を一つのフレームに共存させるにあたって、クリストフを画面手前に置き、彼の背中越しから過去の光景を捉えていたカメラは位置を反転させ、過去の出来事の側からクリストフを捉える。この構図はポンペイウスの殺害が行われた後、クリストフとポンペイウスの娘・ルクレツィアが同一フレームに収まるショットでも反復されるが、このショットが素晴らしいのは、2回目の既視体験でカメラの運動によって具現化されたクリストフの「見ること」への欲望が、画面手前のルクレツィアに奥からゆっくりと近づいていく彼のアクションによってダイレクトに表現されているからだ。
その後、クリストフは度重なるデ ジャ ヴュによってノイローゼになりながらも「見ること」への欲望を引き受けていく。双眼鏡越しに過去の出来事を目撃する4回目の既視体験におけるヒッチコック的なショットはそれをわかりやすく示していると言えるだろう。その点、上で見たクリストフがルクレツィアに接近するショットは映画の分水嶺となっているように思えるが、それはクリストフの欲望を表現することにおいてのみ重要なのではない。このショットの冒頭でカメラの方に身を捻る(クリストフに背を向ける)ルクレツィアのアクションは、彼女が無表情であることも相まって心理的必然性を感じさせず、まるで振り付けのようである。しかし、それはクリストフのまなざしを拒絶することで、より強度に満ちた視線を我が身に引き付けようとする高度に戦略的な身振りに映る。彼女の戦略は、「見ること」への欲望に取り憑かれたクリストフのまなざしを引き付け続けた末に、言葉を介さず視線一つで彼をイェナチュ殺害に駆り立てるクライマックスに帰結するだろう。3回目の既視体験における、過去と現在の位置関係を反転させたショットは、映画の第二の始まりを告げ知らせるという点で重要なのだ。
註 : 遠山純生『デ ジャ ヴュ』パンフレットの解説 6頁