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May 11, 2024

『走れない人の走り方』蘇鈺淳
白浜哲

[ cinema ]

hashirenai_sub07.jpegこの映画の中で、主人公の桐子(山本奈衣瑠)は幾度となく空を仰ぐ。上の空でいるというよりは、どこからか流れてくる風や光を浴びているのか。それとも向こうからやってくる何かを見つめているのか。彼女が空を仰ぐたしかな理由ははっきりとわからないが、そのさまをどれだけ見つめていても見飽きることはない。ただ、そんな桐子はひとつの映画をつくり上げるために、まるで映画を撮影するカメラのようにして目の前に広がる世界へと繋がっていく。その世界との接し方は様々に、全てのものを等しく捉える長回しや目の前にあるものの手触りを感じてしまうほどのクロースアップ、不安定なままに動き続ける手持ち撮影などがあり、せっかく捉えた被写体が遠くへ離れてしまうこともあれば、重なり合う風景の中に一瞬だけ姿を現したりする。

演出とはとりあえずは、ある出来事をありありと目の前で起こっているように観客に見せることであるといえるだろう。そのために映画は、撮影というフレームを持つカメラによってあらゆる手法を駆使してきたし、そのカットやシーンを物語として持続させるための効果的な編集方法を必要としてきた。

言わばその原点に立ち返ると、この映画は一見バラバラな撮影手法によって撮られ、異なる時間軸のあれやこれやをつなぎ合わせたモンタージュ映画のように見える。けれど物語は壊れて破綻してしまうことなどなく、むしろ「同じ場所を目指す」登場人物たちはスクリーンの外側と内側で反射しながら世界を目がけ、前へ前へ進んでいこうと試みる。フィクションとしての要素を生むための繋がりが乱され、宙吊りにされようとも、わたしたちが桐子の近づく足音をありありと感じることができるのは、桐子が世界を見つめる窓のように映画を求め、同時にその壊れてしまいそうな世界を繋ぎ止めてさえいるからだろう。幾度となく彼女が空を仰ぐのも、そうした世界との応答を試みているからなのかもしれない。

とりわけ実家の部屋でカーテン越しに流れこむ光に包まれた桐子と、上映が終わるのを待つ映画館スタッフとのカットバックの連鎖がふたりの鼻歌によって繋がっていく後半のワンシーン。この映画が単に見ることの悦びを超えたところで、海を、友人を、猫を、貯金箱を、要するに世界を、これほど深く、また豊かに見ているのか。そういった驚きが改めてわたしたちの前にやって来る。それはカメラを向けながらスクリーンに現れた監督の蘇が、突然「笑って」と道端の少年に声をかけてくるように、豊かな速度を以て目の前を通り過ぎていくかのような衝撃でもある。

『走れない人の走り方』とは、桐子=映画から放たれた光の断片をわたしたちが受け入れるとき、目の前の世界に向かって投げかけてみせるあの少年の一瞬の微笑みのようなものかもしれない。

5/18(土)より横浜シネマリン、以降全国順次公開予定