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May 26, 2024

本読みと鹿――濱口竜介『悪は存在しない』をめぐって
角井誠

[ cinema ]

phonto.jpg 冒頭、木立を真下から仰角でとらえた見事なトラベリングショットと、青いニット帽とダウンの少女のショットに続いて、一心不乱にチェーンソーで木を切る男がとらえられる。『悪は存在しない』の主人公と言ってよいであろう、この安村巧(大美賀均)なる男は一体何者なのか。この映画の不気味さと魅力の一端は、やはりこの主人公――と、その娘の花(西川玲)――の得体の知れなさにあるように思う。
 ごく単純に、この二人が何者なのかよくわからない。二人が暮らす家には、これ見よがしに母親らしき女性と三人で映った写真が置いてあって、どうやら二人は親子であるらしいのだけれど、なぜ母親が不在であるのかは説明されることはない。加えて、区長の駿河(田村泰二郎)に一目置かれる存在であるようだが、その職業は「便利屋」で、「金には困っていない」と言うものの、湧水を汲む以外に彼が何をして生計を立てているかは定かではない。グランピングの住民説明会で明かされる「開拓三世」という設定にしても、一向に彼の正体を明らかにしてくれはしない。その正体不明ぶりは、同じ説明会で、水の美味しさに惹かれて東京から移住して来て、うどん屋を始めたという佐知と和夫の峯村夫妻――『ハッピーアワー』(2015)の菊池葉月と三浦博之が演じる――と比べると明らかだ。金髪の青年、坂本(鳥井雄人)や区長の駿河といった他の村人だって理解可能な輪郭に収まっているし、グランピングを企画する芸能事務所の社員の高橋(小坂竜士)や黛(渋谷采郁)、さらには社長(長尾卓磨)やコンサルタント(宮田佳典)に至っては、ほとんど紋切り型のわかりやすい造形を施されている。自動車の中で高橋と黛の会話は、人物の背景と現在が描き込まれており、二人を演じる俳優の軽妙なやりとりのおかげもあって、観客にとってのフックとなる場面を構成している。そして、娘の花の方も、センスの良い衣装――青を基調にした衣装に黄色の手袋――に整えられたロングヘアーで、どこか周囲から際立っていて、同世代の友達と遊ぶでもなく、一人でふらふらと自然の中を歩き回ったりしている。
phonto.jpg だが、二人の、とくに巧の得体の知れなさは、何を考えているかわからないところにあると思う。とにかく感情表現に乏しく、喋りも棒読みで、何を考えているのかわからないのだ(花を迎えに行くのを忘れていたことに気づく仕草が、かろうじて彼の思考を垣間見させてくれはする)。住民説明会の場面は、それぞれの人物の背景とともに、性格や感情が浮き彫りになるように組み立てられている。理知的な和夫、誠実な佐知、挑発的な坂本ら住民を前に、子供のように拗ねる高橋――水の大切さを説く佐知の話を聞きながらペットボトルの水を飲む無神経さ――とそれをフォローする黛。どのキャラクターも、その人柄を知ることができる。もちろん、巧の振る舞いも朴訥さということで説明がつくのかもしれないが、それにしてもわかりにく過ぎではないだろうか。彼の感情の稀薄さは、後半で、再び水挽村にやってきた高橋と黛と並ぶと際立つ。うどん屋や車の中で、両者は同じ空間を共有していながらも、ほとんど別世界にいるかのようだ。他の人物の親しみやすさゆえに目立たなくなっているけれど、巧と花の正体不明さ、感情の読解不可能性はやはり尋常ではないだろう。
 ここで、『ハッピーアワー』以来、濱口が用いている「本読み」の方法に触れておこう。濱口は、「ニュアンスを込めず、抑揚を排して」テクストを繰り返し読む「本読み」のリハーサルを行うことで知られている(詳しくは以下を参照。濱口竜介「『ハッピーアワー』の方法」、濱口竜介・野原位・高橋知由『カメラの前で演じること 映画「ハッピーアワー」テキスト集成』左右社、2015年)。感情を一切込めず何度も繰り返し読むことで、テクストを身体の中に落とし込んでいくこと。ジャン・ルノワールが用いた「イタリア式本読み」に着想を得たこの方法は、『ドライブ・マイ・カー』(2021)の題材ともなり、いまや「濱口メソッド」として知られているだろう。ただし、感情やニュアンスを排するのは、あくまでリハサールでの話であって、本番においては、感情とニュアンスが解禁される。自身の身体にテクストを落とし込んだ俳優たちは、本番では相互に反応し合い、テクストは俳優たちの「からだに固有のニュアンス」を帯びて自由に発展していく。「本読み」は、紋切り型でない、俳優どうしの相互作用をとらえるための方法であるのだ。パンフレットでの小坂竜士の証言を読むと、『悪は存在しない』でも同様の方法がとられたことが窺える。実際、小坂と渋谷のかけあいはそうしたメソッドの成果であるだろう。
 さて、そうした方法を踏まえて、巧役の大美賀の演技を考えてみると、どうだろうか。巧=大美賀は、感情を込めない「本読み」そのものではないか。確かに、濱口映画の人物=俳優には、しばしば「本読み」の痕跡を残した棒読みのような響きが感じられる(たとえば、『ハッピーアワー』の公平など)。しかし巧=大美賀は、「のような」というレベルを超えているように思う。他の俳優たちが、感情込みの「本番」を演じている中で、大美賀だけが「本読み」のリハーサルに取り残されているかのようなのだ。実際、彼の演技は、他の俳優との相互作用をほとんど起こしてないように見える。それは、濱口の指示によるものというよりは、おそらく脚本じたいがそうなっているためだろう。巧の台詞は、ぶっきらぼうな「だ・である調」で書かれていて、流れを切断し、相互作用を最小化するように設計されている。巧=大美賀の得体の知れなさは、「本番」にありながらも、「本読み」に徹しているように見えるという、このずれにこそあるのだ。花=西川の方は、まだ子供らしい演技が感じられはする(おならをした巧へのリアクション)。とはいえ、彼女もまた他の子供、人物との相互作用は稀薄で、どこか謎めいた雰囲気を残している。しかし巧は、人間との関係においてどこかずれているものの(いつもお迎えの時間を忘れる)、自然や物との関係においては勘所を完璧に心得ている。高橋に、斧の振り下ろし方を教えるところを思い出そう。「軸足を引いて、最後まで目線を離さない、斧は振り下ろすだけ」。これは、まさに斧を振り下ろす際の「重心」の指示である。ストーンと落ちて薪が割れる。重心の体得は、高橋に大きな喜びをもたらす。重心のコミュニケーション。巧は、『ハッピーアワー』において「重心」のワークショップを行った鵜飼に連なる存在であると言える(三浦哲哉『『ハッピーアワー』論』(羽鳥書店、2018年)を参照されたい)。この「重心」の問題は、ラストシーンにおいて、やはり高橋との関係において一挙に前景化することになる。巧は、いわば、「本読み」や「重心」という濱口メソッドの化身のような存在であるのだ。
phonto.jpg そんなことを考えているうちに、ふと突拍子もない考えが浮かぶ。巧と花は鹿なのではないか。「開拓三世」の彼は、人間の世界に紛れて暮らす鹿、少なくとも鹿的な存在なのではないか。巧、花と他の人物の噛み合わなさは、鹿的存在と人間の間の噛み合わなさなのではないか(そういえば、かつて「本読み」と「動物性」をめぐって論文を書いたことを思い出す。角井誠「テクスト、情動、動物性:ジャン・ルノワールとルイ・ジュヴェの演技論をめぐって」『表象』7号、2013年)。うどん屋での高橋と黛との会話のシーン、薪を割った快楽やらを語る言葉を遮って、唐突に巧は言う。「あそこは鹿の通り道だ」。カメラは人物の真正面に据えられる。鹿は2メートルもジャンプするので、3メートルの柵が必要だが、そんなところに客は来たがるだろうか、と問いかける(それは、挑発でなく、純粋な問いかけである)。鹿の代弁者としての巧。花に関しても、前半、夜の食事会の後で眠り込んでしまった彼女は茂みの向こうにいる二頭の鹿の夢を見るし、説明会のシーンでも、グランピングの紹介動画に続いて、鹿の足跡を辿るところが映し出される。果たして区長の駿河は、他の村人は彼らの正体を知っているのだろうか。そして、終盤、失踪した花を探し始めた巧と高橋、黛の三人は車中でまた鹿を話題にする。鹿は人間を襲うのかという黛の問いに、巧は「それはない」と断言する――ただし「半矢」(手負い)の鹿は例外という留保付きで。だったら鹿と人間の触れあいになるから問題ないのではと返す黛に、巧は「野生の鹿はどんな病気をもっているかわからない」と応じる。臆病なら寄りつかなくなるのではという高橋には、「じゃあ、いなくなった鹿はどうなる」と返す。微かに苛立ちが感じられる。そして、あの衝撃のラストシーン。半矢の鹿が二頭、物言わぬ眼差しでこちらを見つめる。なぜ花は鹿に近づいたのか。なぜ巧はあのような行動に出たのか。ここまで考えてきた私たちにとって、ラストシーンはもはやそれ程謎めいたものではないかもしれない。
 ところで、森の中にあった鹿の骨は誰のものだったのだろう。もしかしたら、それは巧の妻、花の母のものだったのではないか。いや、あれは「子鹿」の骨だったはずなので、それは穿ち過ぎだとしても、骨を見下ろす黛をとらえる骨の視点ショットがあったのが頭から離れない(ポリタンクの水を運ぶ彼女を見ていたのは誰か)。その後、彼女は傷を負うことになる。人間たちの様々な思惑の傍らで、自然の、鹿の思惑が確かに働いている。巧と花は――鹿そのものでないにしても――鹿の論理の側に立つ存在である。だから『悪は存在しない』において、人間の論理で「悪」の所在を問うことにはあまり意味がないのかもしれない。
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