« previous | メイン | next »

June 2, 2024

『夜明けのすべて』三宅唱
結城秀勇

[ cinema ]

 母親の住む家のある小さな駅に降り立った藤沢さん(上白石萌音)が改札を出てくるときに、彼女の方向に向かってずっと手を振っている老夫婦がいるので、なんだ藤沢さんめっちゃ歓迎されてるな、と思ったが、藤沢さんはそのまま彼らの横を荷物を引きずりながら通り過ぎるので、老夫婦が到着を待ち望んでいたのは藤沢さんではなくて、彼女の後ろにいた幼い子供を連れた親子なのだということがわかる。だからなんだ、というただそれだけのことなのだが、でもこの映画で起こっていることというのは、だいたいこんなことなんじゃないのかという気がする。
 続く母親(りょう)が通う施設の場面でも似たようなことを思う。「母がいつもお世話になっております」と言いながら藤沢さんがいつも会社でしているように職員(柴田貴哉)に手土産のお菓子を渡すので、母親はこの施設の利用者なんだろうなとは思いつつも、藤沢さんのこの感じは同僚モードか?もしや母親は職員なのか?という疑いも捨てきれない。その母親を交えて藤沢さんがテーブルについたときにはもう、やはり母親は施設の利用者だろうと心の整理はついているものの、5年前のシーンで母子で並んだときにはあんなに背が高かったお母さんが車椅子に座っているような低さでいるのに、それに直前のカットでここは四肢のリハビリ施設であることはわかっているのに、赤い手編みの手袋を渡すりょうの微笑みが不穏に素敵すぎて、彼女がここにいる理由はもしやメンタル?などといらぬことを考えてしまう。ようやく、家である団地へ帰って母親が多点杖とともに足を一歩階段へ踏み出してよろめくときに、ああやっぱりそうだよな、っていうかそうじゃない可能性を探す理由はなにひとつなかったよな、と思うのだ。
 以上、とんちんかんなことを考えましたエピソードを開陳したのは、映画を見るときも普通に生きていても、一連のシークエンスの終わりや会話の流れの一区切りで「はいはいそうだと思っていましたよ」と平気な顔をしながら、その直前までだいぶすっとんきょうなことを考えていたなと思う節があるからだ。行き着くところへ行ってしまえば、それがはじめから正しかったとしか思えない、そうじゃなかったかもなんて考えるなんて愚かにも程がある。そんなふうにして生きているからだ。
 山添くん(松村北斗)は、藤沢さんに「お互いに無理せずにがんばろう」と言われたときに、「なにが『お互い』なんですか?(......)パニック障害とPMSは全然違うと思うんですけど」と返す。しかし、時を経て、藤沢さんに「地震とか停電は大丈夫なの?」と聞かれたときには、「ぼくは大丈夫です。他の人はどうか知らないですけど」と返す。どちらも山添くんが言っていることは、「あなた(他人)とぼくは違う」ということなのに、なんだか観客は、そこに山添くんの人間としての成長や、藤原さんと山添くんの関係性の発展を見てとってしまいたくなる。だがそうなんだろうか?ここで問題になっているのは結局、すべてのどんな映画もそうであるように、カメラポジションの問題、フレーミングの問題、ズーミングの問題、フォーカシングの問題、つまり視点と縮尺の問題でしかないのに。
 テープに吹き込まれた斉藤陽一郎の声。「太陽が西の空に沈んだ、って思わず言っちゃいましたけど太陽は沈みません。(......)自分たちは動いてないって思うなんて、おこがましいと思いませんか」。500光年の彼方から地球にいまやっと届いたベテルギウスの光が発せられた頃、地球ではようやく、動いているのは太陽じゃなくて地球なんだ、というアイディアが発明された頃だった。それなのに、変わったのはあなたじゃなくて、山添くんの方だと決めつけるのは、「おこがましい」と思いませんか?
 藤沢さんも山添くんも病気は治らない。広大な宇宙の営みに比べれば人間の悩みなんてちっぽけなもので、だから身の丈に合わせてがんばっていきましょう、そんな紋切り型でお茶を濁してしまいそうになるのだが、たぶんそれは少し違うのだ。もし、はるか遠くのことなんてよくわからないから、身の回りのことを丁寧に生きていきましょう、そんなふうに言い換えるなら、それははっきりと「おこがましい」ことだと思う。遠くにある大きなことだから、近くにある小さなものよりも雑に眺めていいわけじゃない。藤沢さんが読んでいた『Powers of Ten』(映画版はこちら)では、視点が極大まで遠ざかっていくときにも、極小まで近づいていくときにも、どちらも虚空とその中で瞬く星々のようなパターンが現れていた。だから、ちっぽけな人間のちっぽけな悩みも、原子の動きも、宇宙の果てのことも、世界のどこかでほとんど理由もなく人が殺され続けていることも、やっぱり全部正確に繊細に見つめないといけない。遠くの大きなことも、近くの小さなことも、こうすればよく見える、そんな大袈裟に言えば「宇宙の真理」のようなものに少しでも近づこうとあがき続けてきたのが科学であり、そして映画だからだ。
 「音響も音楽も波というのはスタッフ間のキーワードとしてありました」と監督は語る。藤沢さんのPMSの周期も波だし、見ている私たちもかすかに震えている気がしてしまうあの小さな地震も波だ。同じ波に乗ることによって少しだけ、自分ではない誰かのことがわかる気がする。ずっと見つめている映像を成り立たせている光もまた波なのだし、同時に粒でもある。だから、星の見えない都会の夜景で光る家々の灯りも、16mmの震える粒子も、栗田科学で働くひとりひとりも、この映画の最後で階段にぶつかって手前に転がってくる白いボールも、みんな星に見える。


大ヒット上映中

  • 三宅唱インタビュー「いつまでも出会いの途中」
  • 「ただ隣にいる」浅井美咲