『マッドマックス:フュリオサ』ジョージ・ミラー
金在源
[ cinema ]
「暴かれた男性性を私たちは受け止められるだろうか」
熱狂できない私
ジョージ・ミラーによる『マッドマックス 怒りのデス・ロード(以下:『怒りのデス・ロード』)』の前日譚にあたる『マッドマックス:フュリオサ』が公開された。『怒りのデス・ロード』では軍隊の大隊長フュリオサが独裁者であるイモータン・ジョーのもとから、彼の子を産むことを強要された女性たちを連れ、フュリオサの生まれ故郷である緑の地を目指して脱走するという物語だった。そのスピンオフとなる本作は、幼いフュリオサが緑の地から連れ去られ、母を殺したディメンタスや、女性を搾取し家父長制度を敷いて支配するイモータン・ジョーなどのもとで生存し、復讐の心を燃やす、フュリオサの怒りの理由が描かれたものだった。
9年前に上映された『怒りのデス・ロード』で描かれた、子を産む道具や輸血袋として扱われた者同士が息つく暇もないアクションを通して次第に連帯し、人としての尊厳を取り戻していく姿は私の心を掴んだ。衝撃を受けた私はその後も繰り返し劇場に足を運び、爆音上映や野外上映にも参加し、そのたびに感動を覚えた。私だけではなく、そのカルト性の虜になってしまった人は多く存在した。今回も期待をしながら、公開日にIMAXシアターで鑑賞した。本作ではフュリオサ(アリーラ・ブラウン/アニャ・テイラー=ジョイ)の過去が搾取と支配、グルーミング、性的な役割の押し付け、父権社会に翻弄され続けてきたことが明かされる。故郷や家族、髪の毛や腕に至るまで、フュリオサのすべてが支配者たちによって奪われていく。2時間半、そのような映像を見せられた私は鑑賞後、前作で感じたような高揚感を抱くことはできなかった。物語の構成、演出にしっくりこなかったわけではなく、各シーンでの展開に目を離すことはできず、手に汗握るシーンも多々あった。だが物語が進行していくにつれて、『怒りのデス・ロード』の本質を理解したような振りをしてエンタメ的な消費をしてしまっていた自分に気付き、自己嫌悪のような感情で一杯になってしまった。自分が隠せていると思っていた男性としての特権性が暴かれ、否定されたような感覚が今も続いている。鑑賞直後からもう一度見たいと思わせられた前作とは対照的に、できればあまり見たくないとさえ思ってしまった。
描き出される男性中心主義
本作の新たなヴィランとして登場するディメンタス(クリス・ヘムズワース)と妄信的な信者を抱えるイモータン・ジョー(ラッキー・ヒューム)はそれぞれ異なった男性性を持っている。ディメンタスは髭を生やし、筋肉質で、口数も多くカリスマ的には見えない。男らしさの象徴のような姿をしている彼は、フュリオサの母親を火あぶりにした挙句殺害し、人質の体を複数のバイクと結び付け、手下を煽り立てバラバラにするなどの残虐性を持っている。一方で、幼いフュリオサに対しては「リトル・D」と名付けたり、自身の子どもの形見であったテディベアの人形を預けたり、イモータン・ジョーと対峙する場面では落下するフュリオサを助け、フュリオサの健康を気遣うような素振りも見せる等のグルーミングとも言える振る舞いをする。見栄を張り、感情的になり、チャラついた一面を持つ彼の姿は、「DV男」や「モラハラ男」のような現実に存在する男性性を振りかざす人々の姿と重なり、そこには妙に現実味があるように感じる。
イモータン・ジョーはディメンタスと違い、感情的になることは少なく、父権性に基づいた政治をシステマティックに行う。圧倒的カリスマ性でガスタウンと弾薬畑の間で経済を生み出し、カルト集団の教祖として972人のウォー・ボーイズを従え、女性たちは子を産む道具として監禁し情報を遮断することで父権主義社会を構築している。そんな彼はフュリオサの人格に関心はなく、子孫を残せるかどうかだけが重要であるため、若い健康な女であるという理由で彼女をガスタウンの支配権の譲渡と引き換えにディメンタスから奪い取った。物として扱われるフュリオサは、社会を統べる領主にとって資産価値があるかどうかだけが重要なのだということがわかる。
連帯する男性の姿
このような圧倒的父権社会の中でフュリオサと連帯しようとする男性も現れる。
無口で一匹狼のような警護隊長のジャック(トム・バーク)は、ディメンタスやイモータン・ジョーとも異なる雰囲気を持っている。ジャックは独裁者になる前からイモータン・ジョーのことを知っており、世界が崩壊した後に大勢の人々と砦に避難してきた*1。これまでイモータン・ジョーと共に搾取と支配の構造の一端を担い、男性中心主義社会で生きてきたジャックはフュリオサの怒りに触れ、そこで初めて彼女が物ではなく、同じ人間であることに気付く。そしてフュリオサが抱える背景を知ったとき、自身の生い立ちを口にする。その後の二人の関係は安易な男女の恋愛として描かれない。シスターフッドでもブラザーフッドでもない関係の中、共に生きていく相手としてお互いのことを知り、フュリオサの故郷で交わされていた額を寄せ合う挨拶を行う。本作、そして『怒りのデス・ロード』でフュリオサと共に行動したのは、父権性に抗うマッチョなヒーローではなく、その場に偶然居合わせ、迫害された者の痛みを知った男性だったように受け取れる。
暴かれた男性性を私たちは受け止められるだろうか
終盤、フュリオサに追い詰められたディメンタスは復讐が何も産まないことを彼女に説く。そしてフュリオサもまたディメンタスやイモータン・ジョーと同類であると、抵抗する彼女を最後まで男性中心主義の中に縛り付けようとするのである(そんな呪縛からフュリオサと共に脱出を試みるのは、本作に登場する警護隊長のジャックと、家族を失い放浪するマックスという二人の男性でもあった)。
本作の公開にあたって、公式HPには「すべてが最高!」や「アクション以外を削ぎ落した...」というコメントが男性評論家たちによって寄せられていた。フュリオサの怒りの理由を知った今、私は自分が持つ男性としての特権性に触れずに本作を評することはできない。本作は神話のような語り口で進んでいくが、これは現実とかけ離れたファンタジーの世界ではなく、現実社会にある搾取や暴力を鋭く風刺した作品であると言えるだろう。そしてこれを「最高」と評することはフュリオサの苦しみを娯楽として消費し、再生産することに加担しているのではないかと私は思う。自分の特権性が脅かされないということを知りながら、弱者が尊厳を取り戻す物語を喜ぶグロテスクさについて考えさせられる。
『怒りのデス・ロード』の製作時には『ヴァギナ・モノローグ』の著者であるイヴ・エンスラーが協力し、出演者たちにフェミニズムについての講義やワークショップを行ったことは有名である*2。また公開時には「Men's Rights Activists」によるボイコットも起きた*3。このように、前作がフェミニズム映画の文脈の中にあることは、多くの場面で語られてきたが、私たち日本に住む男性はそれをちゃんと受け止めてきたのだろうか(『マッドマックス:フュリオサ』の公式HPに寄せられた男性たちからのコメントにはそのことに言及するものは一つもなかった)。そしてなぜ今フュリオサの物語がこの世界に必要なのかを考えたとき、本作のメッセージは9年前ウォー・ボーイズに共感し、「V8!」と叫び、イモータン・ジョーを称え、目を閉じて父権社会に乗っかった私たちに向けられているのだと私は感じる。
*1:『マッドマックス:フュリオサ』公式パンフレット、p.22
*2:Eliana Dockterman (2015) "Vagina Monologues Writer Eve Ensler: How Mad Max: Fury Road Became a 'Feminist Action Film'".
*3:Matt Kamen (2015) "Mad Max: Fury Road hilariously angers "Men's Rights Activists"".
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