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June 8, 2024

『左手に気をつけろ』『だれかが歌ってる』井口奈己監督インタビュー ──出会うとか、すれ違うとか、別れるとかに意味がないってことこそ奇跡──

[ interview ]

まだ映画のことなどよく知らない、自由に映画を撮れるはずのこどもたちであっても、じっさいに制作の場に立てば、人としてちゃんとしなければいけない、ということを『こどもが映画をつくるとき』は教えてくれた。人の話を聞かなくてはいけないし、無断で撮影をしてはいけないし、そのためにタイミングを見計らって色んな人に丁寧なお願いをしなくてはいけない。映画は仲間や仲の良い人たちだけで好き勝手につくれるものではなく、自分たちのためにだれかの時間をいただかなくてはいけない。だからこそ自由に映画を撮るということはとても難しい。もちろん自由に映画を撮ったところで、完成したものが自由な映画になるのかといえば必ずしもそうではない、ということもまた難しい。
 『だれかが歌ってる』『左手に気をつけろ』は自由な映画とは何なのかをあらためて考えさせてくれる。それはこの二作が獲得した自由がとても危ういものだからなのかもしれない。ひょっとしたら物語映画として成立しなくなってしまうのではないか、というものが映っている(あるいは必要なものが映っていなかったりする)。しかしそうした危うさをこの二作は隠そうとはしない、むしろそれらを楽しんで引き受けているところが『だれかが歌ってる』『左手に気をつけろ』の大胆な魅力なのだ。今回はそのような懐の深さが井口奈己監督のどのような発想のもとに生まれているのかを伺った。


sub_5.jpg・舞台

──二作品それぞれの制作経緯からお聞かせください。

井口奈己(以下、井口)  松陰神社前にあるタビラコというカフェが両作品に舞台として出てくるんですけど、そこは毎年店内でライブやアクションペインティングみたいなことをするイベントをやっているんですね。そこで8ミリ版の『犬猫』を上映した際に、今度は映画をつくってはと言われて、2019年につくったのが『だれかが歌ってる』です。短編だということもあって、ふだん長編をつくるのとは違うやり方でつくろうと思っていました。筋で詰めていけない感じがあるので短編の方が自分的にはちょっと難しいんですけど、それなら好きだと思う場面を入れていって、それらをまとめてしまおうと考えました。最後にこどもたちがいきなり出てきて歌って終わるシーンは長らくやりたいと思っていたことでしたね。でもいざやってみようと思ったら、現場で私たちが子どもたちを御しきれなくて、もう勝手に遊んじゃうんです。

──すごく自由な場面で良かったです。

井口  ちょっとでもこっちの段取りが悪いともう待ってくれないから、こっちで遊んであっちで遊んでっていうのをいきおいで撮ってしまった。所々で曲を流すと、みんな歌ってはくれるので、それでなんとか撮れたら、むしろそこがすごく評判が良かったんです。金井美恵子さんと久美子さんが、「ああいうので撮ればいいじゃない」と言ってくださいました。でもコロナ禍になってしまい、二年くらいは連絡が取れず会うこともできずにいたんですが、コロナ禍のおわりの頃に、金井さんたちから「本気よ」という連絡がきました。コロナ禍のあいだに撮った『こどもが映画をつくるとき』もお二人はすごく気に入ってくださっていたようで、「こどもが暴れたらいいじゃない」と。なので、こどもが暴れる短編映画を撮るというミッションが、『左手に気をつけろ』の一番のはじまりです。

──同じ場所にこだわられていますが、コロナ禍以前と以後でその場所の見え方は変わりましたか?

井口  タビラコの店内の席の位置が変わったりしましたね。以前はカウンターで店主の人と喋れる席があったのが配置替えされていたり。そういった変化には影響を感じました。カウンター席のところに入れなくなっちゃったので。人間どうしの距離をつくるみたいな意識が、前と後ではあるんだなという。
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──『左手』で占いをやっている場所は同じカフェの廊下ですよね。あそこは物語上でも同じ場所ということでしょうか?

井口  あそこはどう見えるかなという感じです(笑)。あの建物自体が上にも下にもいくつかお店が入っていて、全体で複合施設みたいになってるんですね。あの廊下でもよくフリマや編み物のイベントとかをやったりしているので、その感じで占いをやっています。

──それから世田谷線のような路面電車は井口監督の映画によく登場しますよね。舞台装置として思い入れがあるんでしょうか?

井口 そうですね、平行移動するものが好き。世田谷線は車両が二両だけで短いのが特に好きなポイントです。

──世田谷線が通ることで、場所がつなぎ合わされますよね。

井口  実際に知ってると、どこからどこに?という疑問が湧くかもしれないですね。

──『だれか』の冒頭のマンションは他の世田谷線沿いの町並みとは違う場所のように思えるのですが、あれはどこなのでしょうか?

井口  千歳船橋ですね。出演されている方のご自宅なんですが。行ってみるとすごく近代的な団地というか、ロメールの映画に出てくる郊外の建物みたいで面白いなと思って、使わせていただきました。あれは再開発されたエリアらしいです。

──別世界みたいですよね。そこで初めてどちらの作品でも流れてくる曲「窓辺」が演奏される。で、そのままカフェの廊下で絵を描いているカットに変わるわけですが、あの廊下の前進移動はどのように撮られているんですか?

井口 ドローンです。ドローンを手で持って移動させたんです(笑)。飛ばしたりもしたんですが、うまくいかなくて、ふたりがかりで前進させました。

──手動なんですね(笑)。別世界のような団地のシーンから前進移動のカメラでカフェの廊下のシーンに飛ぶので、心象風景というか、夢の中に入っていくような感じがしました。

井口  私は縦の移動がすごく好きで、いつもは手づくりのレールを引いてその上を転がすというようにやるんですが、あのときはどうしてもレールが見えてしまうという問題があって、どうしようってなった時に、ドローンを持っている人がいたので使いました。

──井口監督は実際の場所と物語世界の場所が、違う地理感覚にあっても、それをつなぎ合わせることには全然ためらいがないですよね。

井口  鈴木清順方式を採用させてもらっています(笑)。

──『左手』の最後の島もいろいろな場所を組みわせている。

井口  そうです。

──最初の海岸、飛行機、ユートピアがありますが、それぞれどこなんでしょうか?

井口  海岸は三浦半島の岬の先っぽの方にある毘沙門天浜です。飛行機は調布ですね。小金井公園か何かで鈴木昭彦さん(撮影)が撮ったと思います。そしてあのユートピアは町田です。都内で良さげな公園を探したんですけど、ほとんどの公園が楽器演奏しちゃダメで、あそこの町田だけが楽器演奏可だったんですよね。近くにサッカースタジアムがあって、試合のとき毎週うるさいから楽器を使ってもいいってなってるんでしょうかね(笑)あと周りにあまり人が住んでなくて。

──実際の場所を知っているとですが、『だれか』よりも『左手』の方が、より離れた場所たちをまるで行き来できるかのような規模でまとめられていますよね。

井口  『だれか』はカフェの映画にしようと思っていたので、その周辺でという感じなんですけど、『左手』はそもそもこどもが暴れないといけないから、こどもが暴れるところから始まって、こども警察が島流しにするということで、必然的に場所も増えちゃったという感じですね。


・すべてがフラットな物語

──この二作に共通する主題として、『だれか』でのメロディーや、『左手』でのこども警察の笛の音など、一部の人だけに聴こえる音が出てきます。

井口  自分にとっての短編のイメージというのは、長編が散文であるのに対して、もっと詩的というか、ストーリーをつないでいくわけではないというイメージがあります。それがすごく苦手なんですけど、そのイメージのきっかけとして、そういう自分にしか聞こえない音を入れていきたいと思いました。これは自分の体験なんですが、パリから日本に帰ってくる時にトランジットの北京の空港で、ヘトヘトになって売店前のソファーで寝てたんです。すると口笛のようなすごく綺麗な音楽が近づいたり遠のいたりしながら聴こえてきた。私もう死んじゃったのかなって、天国の音楽が聴こえてきてるんだって思ったんですが、そばにいた増原譲子さん(プロデューサー)も聴こえるって言うんで顔を上げて見たら、清掃のおじさんが口笛を吹きながら掃除してたんです。だからそのおじさんが遠くに行くと、口笛の音が遠のいて、近くに来ると近くで聴こえる。それがすごく楽しい体験だったので、それをやってみようと。わたしたちだけに聴こえる音楽っていう。

──『左手』の笛の音は観客には一度も聴こえないですよね。こどもだけが聴こえるという設定を意識されてのことでしょうか?

井口  実際にピーピー鳴ってたらちょっとうるさいなというのもあるんですが(笑)。録音部だった時に、当時20歳ぐらいだった私には聴こえるノイズが私より10歳上の鈴木さんには聴こえないということがあって、聴こえるひとと聴こえないひとがいるっていうのが面白いなと思って、こどもにだけ聴こえるというようにしました。

──それからそれぞれの作品のモチーフでいうと『だれか』では絵があります。この絵について不思議だったのは、主人公たちが雑貨屋さんの壁に飾られた絵をショーウィンドウの外側から眺めますよね。そのとき絵自体は微妙に見切れている角度から撮られています。あのカメラポジションはどのように選ばれたのでしょうか?

井口  まあ、あそこしかないという(笑)。外からの撮影では絵が見えなくて、中からだとここに置いたらなんとか見える。

──後半絵が売れて無くなった後に、登場人物が店内で絵のあった場所を見る背後からのシーンがありますが、あそこではダメだったんでしょうか?

井口  ああ、あそこでは、絵、というよりはショーウインドウの外から眺めている顔を優先する必要があると感じたんですよね。

──なるほど。彼らの欲しいものがはっきりとはわからない感じが面白いと思いました。似たようなところが『左手』にもあって、主人公のりん(名古屋愛)が占い師に「本当の相手」との出会いを予言されますが、りんが出会う男女カップルのうち、女性の方を本当の相手だと思ってるのか、男性の方を本当の相手だと思ってるのかが意外とはっきりしない。

井口  ふつうに考えると男性の方だと思うかもしれないけど、そうじゃないかもしれませんよね。実はこの本当の相手占いみたいなものは友達の実話で、本当の相手がいるっていう占いをされたことによって、自分が思うその相手に執着してしまって、その呪いみたいなものが解けるのに10年ぐらいかかったんですね(笑)。でも解けてみれば、その本当の相手って別にひとりじゃないのかもしれないという感じになったんです。なので、脚本を書いている時も撮っている時も、主人公は本当の相手が男の人だと思っているかもしれないけど、もしかしたら女の子の方なのかもしれないよという感じにしました。
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──主人公はお姉ちゃんも探してるし本当の相手も探していて、本当の相手かもしれない人が三人もいる。あるいは『だれか』でも、絵、りんご、歌と、物語を繋げるアイテムが複数あります。こどもたちや経験が少ない俳優たちと一緒に撮る場合には、そういったアイテムを少なくして、シンプルに話をまとめるという手もあると思うんです。ですが、井口監督はむしろどんどん詰め込んでいってる感じがして、そこがすごく面白い。話をつくる時には引き算よりも足し算でつくっていかれるのでしょうか?

井口  そうですね。どんどんどんどん足していって、そしてどんどんフラットになっていく傾向があります。編集もやればやるほど、フラットな印象になっていくんですよね。フラットなのが基本的に好きなんです。感情みたいなものはアイテムとしては使えるんですけど、それを映画の中心にはできなくて。そんなバカなという気持ちになっちゃうから絶対できないんです。映画をつくっている時に、日常で起きる奇跡って何かなって考えていて、それは人と出会うとか、人とすれ違うとか、人と別れるということに意味がないっていうことなんです。だから、どうしてもフラットになっていくのかもしれません。

──こどもについてもお聞きします。こどもが暴れるというと、『新学期 操行ゼロ』(ジャン・ヴィゴ、1933)のような体制に反抗的なこどもたちをはじめに思い描くのですが、逆に体制側、法の側でこどもたちを配すという発想はどういった経緯で出てきたのでしょうか?

井口  こどもを映画のなかで暴れさせたらいいんじゃないかって言われた時に、一番はじめに頭に浮かんだのは『巴里祭』(1933)というルネ・クレールの映画でした。女と男のちょっとした恋愛模様の合間にこどもたちがわーっと出てくるんですが、本編の内容にこどもを絡めると、常にこどもを呼ばないといけなくなって私たちの体制的にそれを御しきれないという懸念があった。なので本編とこどもは別だけどずっとこどもの影響があるというようにするにはどうすればいいかなと考えていました。そこで次に思い浮かんだのが『かぼちゃ競争』(ロメオ・ボゼッティ、1907)というサイレント映画でした。カボチャがどんどん増えていき人を追いかけていくといった映画なんですが、それをこどもでやればいいかと(笑)。自分がこどもだった時に、こどもが大人を襲う映画が好きで、『光る眼』(ジョン・カーペンター、1995)や『ザ・チャイルド』(ナルシソ・イバニエス・セラドール、1976)などが記憶に残っていましたし、あとこどもじゃないけど『ザ・フォッグ』(ジョン・カーペンター、1980)のように何かにわーっと追い詰められていくイメージでつくろうとしていました。
 体制側かどうかという話でいうと、コロナ禍の時に日本では緊急事態宣言は出たけどロックダウンはしなかったじゃないですか。ただ、ロックダウンはしないけど、みんな空気を読んで自粛しようという圧がものすごくあった。みんな簡単に体制側になり得ると体感していたので、それならこどもたちも、という経緯です。
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──前二作でこどもを演出された経験から、可愛いだけじゃなくて、危うさもあるのではないかと実感されましたか?

井口  そうですね。無垢だからこそ。

──例えばウィルスの映画であれば、人物全員にマスクさせるといった判断もできるわけですが、『左手』ではそれはしていないですよね。ずっと張り詰めているわけではなくて、穏やかな時間とそうでない時間の波があるように思えてきます。

井口  実際そんな感じなんじゃないかと思います。というのも、自分の祖母から戦争中の話を聞いたりすると、大変ななか普通の生活もあったんだなと思うんです。東京に住んでいた祖母の家族が、空襲の時に全滅しないために、二組に分かれて半分半分で逃げた際に、一方の組のおじいさんが焼夷弾の破片に当たって手が吹っ飛んで瀕死になってしまったんですが、もう一方の組の祖母は子どもたちの手を引いて鼻歌を歌って帰ってきたそうです。そういう非日常的で危ない時でも、鼻歌を歌って帰ってきちゃうような事が起きるんだと印象に残っていて、映画でもそのようにしたいと思っていました。


・芝居とカット割

──やはり左手と言われているからには登場人物の利き手がどちらなのかを考えながら見てしまいます。でもあえて左手の寄りは撮ってないですよね?

井口  そうですね。なんででしょうね(笑)。切り返しが嫌いなんじゃないかって言われているんですけど......切り返してますけどね(笑)

──そうですよね(笑)、確かにどちらの作品も寄りのショットはあるけど、物語的に重要なものよりも、井口さんが撮りたいものを寄りで撮っている気がします。物語的に重要なものはむしろさりげない。

井口  確かに。

──だから物語で詰めれない短編が難しいとおっしゃっていたのはむしろ意外で、物語よりも撮りたいものを優先される方なのかなと。

井口  芝居は、芝居してる人たちを優先したいので、寄りのカットを撮ったとしてもたぶん編集で入れないんじゃないかな。だから撮ってもいないんだと思います。物には寄れるけど、芝居の時にあえてカットして寄るといったことは苦手なのかもしれないですね。

──できれば俳優の全身を撮りたいということでしょうか?

井口  そうですかね。芝居は全部見たい。芝居がいいなら、もう本当にカットもかけたくないですし、ワンカットで行けるなら、それが一番いいような気がしています。

──それでも切り返しを使われるシーンもある。どういうタイミングで使われるんですか?

井口  どんな顔をしてるのかが見たいときですね。そういったときは現場判断ではなくて、はじめから切り返したいと思っています。最近は割とそれを想像しながら脚本を書けるようになりましたね。
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──マダムロスが演奏してる場面も、並行モンタージュを経てりんとの切り返しになっています。

井口  正面の切り返しはやろうと思ってはいました。ただ、音楽を演奏している人たちを撮る経験があまりないのと、芝居の人たちとの整合性をとる難しさがあって、撮れてないカットがいっぱいある感じがします(笑)。


・夜のない映画

──もうひとつ共通点として、どちらの映画も夜のシーンがひとつもないですよね。それは物語上意識されてのことなのか、それとも制作状況的にそうならざるを得なかったのでしょうか?

井口  制作状況的にというのもあります。どちらの作品も短編にしようと思ってたので、意識的にしてたわけじゃないけど、たしかに夜のシーンが全然なかったですね。

──『だれか』はクリスマスの話なのに、すべて昼のシーンで展開しますよね。

井口  そうですね、ずっと昼間(笑)。いつも昼のシーンばかり考えてて、長編だとずっと昼だとまずいから合間に夜を入れていく作業が入るんですけど、短編だとそれが入らなかった。

──基本的にシーンを考えられる時はいつも昼で考えてらっしゃるんですね。

井口 夜のシーンは意識しないと入らないですね。

──服装も日をまたいでも変わりませんよね。

井口  飛び飛びのスケジュールで一週間ほどの撮影期間でしたが、一着決めてずっとそれで来てもらいました。一番初めに8ミリで映画撮ったときに、1年半ぐらいの撮影のなかで、何日間かのストーリーだったので洋服を変えたりした結果、当時まだ脚本の詰めが甘かったこともあって、編集してる時にシーンを繋ぎ合わせようとすると、衣装が違うということがよくあったんです。なのでもう同じにしてしまえと。

──ちなみに『左手』は何日間のお話なんでしょうか?

井口  3日か4日の話です。

──『だれか』と大体同じ期間の話なんですね。昼のシーンしかないというのはまた、みんなが映画を撮れる時間帯である、つまりこどもが出ているということにも関わっているのでしょうか?

井口  そうですね。『左手』はこどもをどこに出すのかという命題があって、こどもを暴れさせないといけないわけですから、絶対夜はないですね。

──さきほどのお話にあったフラットにする感覚では、昼と夜よりも全部昼だったほうがフラットに並べられるということもあるんでしょうか?

井口  でもこれで長編をつくらなきゃいけなかったら、多分夜を入れてるとは思います。あと夜に人はどこにいるのかなって考えてみると、そんなに外にはいないと思ってしまう。いるのか(笑)。

──確かに井口さんの映画の夜は室内が多いような気がします。

井口  そうなんですよ。

──1日の終わりという感じがなくて、どの日も途中で終わっている。だから何か出来事があった後も、この人の1日は続いてる感じで切れていくような気もするんです。

井口  そうですね。あと字幕を入れるからいいかということもあります。字幕は入れるつもりだったので。

──でも『左手』の方の字幕に日付はありませんよね。

井口  確かに。なるほど、そうすると、ずーっと同じ日だと思われるかもしれないということですね。

──天気は変わりますね。最初から雨のシーンを撮るつもりだったのか、雨だったからそのまま撮られたのでしょうか?

井口  雨だったのでそのまま撮りました。桜の季節は結構雨降るんですよね。撮影の週の半分ぐらい雨でした。字幕で天気が変わるというのも後からです。

──そういえば「窓辺」は「また夜が来る」という歌詞で始まりますよね。でも映画では夜が来ない。

井口  何でですかね。偶然人が出会ったり、すれ違ったり、別れたりするのって昼な気がするんですよね。


2024年5月8日、高田馬場 取材・構成:梅本健司、安東来
協力;結城秀勇


■井口 奈己(いぐち なみ)
1967年、東京生まれ。在学中に、矢崎仁司監督『三月のライオン』の現場に録音助手として初参加。その後、黑沢清監督『地獄の警備員』など、数々の映画で録音助手や助監督を務める。1997年、はじめての自主映画に着手。完成までに4年を要した『犬猫(8mm)』は、PFFアワード2001で企画賞(TBS賞)を受賞し、8mm映画作品としては異例のレイトショー公開され、第12回日本映画プロフェッショナル大賞新人監督賞を受賞。2004年、『犬猫』を35mmでリメイクし、第22回トリノ国際映画祭で審査員特別賞、国際批評家連盟賞、最優秀脚本賞を受賞した他、女性監督として初めて日本映画監督協会新人賞を受賞。2008年に監督・脚本を手がけた2作目の『人のセックスを笑うな』が公開。2014年『ニシノユキヒコの恋と冒険』が公開、他に2019年短編『だれかが歌ってる』。2021年『こどもが映画をつくるとき』は初のドキュメンタリー作品。


■『左手に気をつけろ』
6/8(土)より、渋谷ユーロスペースほか全国順次ロードショー
出演:名古屋愛 北口美愛 松本桂
監督・脚本・編集:井口奈己
撮影・仕上げ:鈴木昭彦
音楽:Yuke Myras 大滝充
エグゼクティブプロデューサー:金井久美子 金井美恵子
プロデューサー:大滝薫子 大滝雅之 増原譲子
制作プロダクション:合同会社ナミノリプロ
製作・配給:一般社団法人文化振興ネットワーク
©文化振興ネットワーク、CULTURAL DEVELOPMENT NETWORK
2023年/43分/日本


■『だれかが歌ってる』
出演:森岡未帆、川井優作、秋谷悠太、北口美愛、細海魚、新居昭乃、山口一郎
監督・脚本・編集:井口奈己
撮影・仕上げ:鈴木昭彦
絵:山口一郎
音楽:細海魚
2019年/30分/日本 ©naminoripro2019

  • 【公式サイト】

  • 『犬猫』|和田清人
  • 『人のセックスを笑うな』|梅本洋一