『アイアンクロー』ショーン・ダーキン
結城秀勇
[ cinema ]
ただの「肉の指」に過ぎないものを「鉄の爪」だと言い張り、あたかも本当に「鉄の爪」であるかのように振る舞う。それこそが言わば、プロレスの矜持そのものなのかもしれず、だからこそ元祖「アイアンクロー」フリッツ・フォン・エリック(ホルト・マッキャラニー)は、何度も何度も息子たち「フォン・エリック・ファミリー」に「proud」という言葉を投げかけるのだろう。
しかし、兄弟の中で最年長であるケビン(ザック・エフロン、長男であるジャックJrは幼くして亡くなっているので次男である)が「ファミリー」について語るときに使う形容詞は「proud」ではなく、「happy」なのだ。そして彼がこの言葉を使う対象としての「ファミリー」には、注意深く聞いていると父と母が含まれていないことに気づく。彼はその言葉を兄弟たちに向けて使う。
だからこれは「proud」と「happy」の間に横たわる悲劇なのだとも言えそうなのだが、ケビンは「proud」ではなく「happy」を求めたのではなくて、「proud」とともに「happy」を求めてしまったのだという不幸もまた、注記されるべきなのかもしれない。
『アイアンクロー』は「二世」についての物語だが、必ずしも「スポーツ選手二世」という狭いジャンルに限ったものではなく、「芸能人二世」「政治家二世」「宗教二世」といった他ジャンルにも共通するなにかを描いているように思う。だから、この映画で本当に恐ろしいのは、強権的な父親が「男たる者恐れてはならない」というマチズモを押し付けてくることではなくて、実は、僕は恐ろしいと告白する息子に向かって、「神を信じるなら、恐怖は存在しない」と母親が言い放つことのように思えるのだ。強くあれ、涙を見せるな、痛みを堪えて立ち上がれ、そうした実情とは異なる見せかけを生きるよう強いられた兄弟たちが疲弊していくのはたしかなのだが、しかし彼らが再び立ち上がれないほど心をへし折られるのは、実情と見せかけのギャップである以上に、弱さや悲しみや痛みなどというものは「存在しない」という両親の態度だという気がする。父も母も言う、「兄弟たちで解決しなさい」。
この映画では選手としてのケビンの決定的な凋落のきっかけとして描かれる、リック・フレアー戦の異様な雰囲気が忘れがたい。タッグパートナーとしての兄弟を次々と失った彼がもはや「happy」から遠く離れたところにいるのは誰の目にも明らかなのだが、同時に彼はこの試合の間「proud」からも同じくらい遠く離れている。それは彼が反則負けという不名誉なかたちでこの試合を失うからではない。彼がこの映画で初めて繰り出す「鉄の爪」が、所詮「肉の指」でしかないことによって彼はかろうじて救われているように思えるからだ。もし彼のアイアンクローが本当に「鉄の爪」であったなら、レフェリーの静止を振り切ったリング上で、あるいはリックが「飲みに行こうぜ」と誘いに来た楽屋からフリッツとケリーが出ていってふたりきりになった直後に、ケビンはリックを殺していただろう。史実としてこのとき彼がなにを思っていたのかはともかく、この映画のあの場面のケビンの目には、その意志が宿っていたように思えてしかたがない。
「鉄の爪」は「肉の指」でしかない。これは「肉の指」じゃない「鉄の爪」だ、というプライドの代わりに、どうしてもそこに存在している「肉の指」をなかったことにはしないことによって、ケビンは「proud」ではなく「happy」の方へと舵を切ったのだ。......しかしそれは本当だろうか?フリッツの母方の一族には不幸が多かったなどという伝説がまことしやかに語られもするが、どう考えても「フォン・エリックの呪い」の大部分はフリッツの一代で築かれたものだ。それをアドキッソンという名前に戻したところで、ケビンは呪いを振り払えたのだろうか?息子たちを「ブラザー」にするこの映画のラストは、本当に「happy」の方向へ向かっているのか?この幼い少年たちがいずれ第三世代の「フォン・エリック・ファミリー」としてリングに上がることになることを知るとき、この映画には描かれなかった六男クリスの存在を知るとき、呪いはそうやすやすと解けるはずはない、という考えが頭をよぎる。
だから私はケビンを、ただの犠牲者だとも新しい運命の開拓者だとも見なしたくはない。そのときに残るケビンがケビンたる所以とはなんなんのかというと、それは彼がブーツを履かずに裸足でリングに上がることだと思う。父や弟たちのようにマイクパフォーマンスを器用にこなすことができない彼が、それでも必死に振り落とされないようにリングにしがみついた裸の10本の足の指。それこそが誰かから継承したわけでもない、彼なりの「アイアンクロー」だったのではないだろうか。