『クイーン・オブ・ダイヤモンド』ニナ・メンケス
芳賀祥平
[ cinema ]
血のように真っ赤なネイル、カード台の前で腕組みをして佇む女性、その女性が半裸の状態で寝たきりの老人を介護する。固定のカメラは冒頭からラスベガスで生活するフィルダウス(ティンカ・メンケス)を映し出し、それに続いて、外壁が赤と緑の平家、地面から多方向に伸びる植物、磔にされたキリストを逆さにして運ぶカーニバルの人々といった、彼女の生活を囲う風景が美しい画面構成で捉えられる。映画全体を通して主観を排した息の長いショット群が脈絡を欠いて並べられ、ヴォイスオーバーなどによってフィルダウスの心情を語らせる手法が避けられているのも相まって、物語の流れを把握するのは容易ではない。
そのようにして映画が進むにつれ画面上では何かを見ている人々が徐々に映し出されていく。湖をみやっている子供、これはひどい、前はもっと綺麗な場所だったのにと嘆く半裸で白髪の男性もまた、眼前の湖をゆっくり見渡している。そしてフィルダウスも例外でなく終始何かを見つめている存在だ。ディーラーとして働いている時と同じように腕組みをしながら教会で何かを見つめ、虚しくも強く燃え盛る一本の木を見つめ、ベッドに横たわる老人を見つめる。彼女が目にするものは死や暴力そのものである。後からわかるように彼女は教会では死者を見つめ、街中では白い布で包まれて運ばれる死体を凝視し、老人の死を看取る。同じように友人の愛ゆえの自傷行為やモーテルの同階で隣人の男が女にふるう暴力を目撃し、実際に彼女も強盗という暴力に屈するしかない。白く塗られ終始無表情なその顔から感情を掬い取るのは難しいが、暴力は視覚的、あるいは身体的にフィルダウスに波及してくる。
一方、フィルダウスは他者に見られる存在としても映画の中に立ち現れてくる。ある時は車通りの多い車道の前のベンチで、ある時は湖で、かわるがわる男たちが彼女に近付いてくる。さらにある時はモーテルで──フィルダウスが先のシーンでカップルの男の暴力を目撃した場所からおおよそ変わらぬ位置からのロングショットで、カメラは彼女が二人組の男にジロジロと舐め回すような目つきで見られ、客体化されていく過程を捉える。だがそれに対して彼女はただ黙っているのではなく、決して小さくない抵抗に出ているように思える。ベンチに座って愛を語り出す男には視線を合わせず勧められたタバコを拒否し、湖で声をかけてくる男性に対しては明後日の方向を向いて座り、彼女はそれらの対象に正体することはない。長い間探していた夫らしき男性とレストランで会う場面でも、彼女は魚をほじくり続けるだけで中から指輪を見つけるとすぐに席をたってその場を後にする。二人を同一フレームに収めることや、まして切り返しで映すことははっきりと避けられており、この場面ではカメラもフィルダウスに味方しているかのようだ。その後店に残された男が窓の方に送る視線から、彼女は一人ラスベガスの夜に昂然と歩き去る。
終盤の野外でのウェディングパーティーにおいても彼女は一人場に馴染まない様子でその式を端から見ており、その姿とパーティーの出席者、主役の新郎新婦をカメラは捉える。前のシーンで顔にできていたあざは消えているものの望遠気味に捉えられた新婦の体には至る所にあざがあり、その傷が痛々しく画面上で動き回っている。しかし、パーティーの出席者たちはそのことをつゆにも問題にしていないように見える。彼らは見逃してしまっているのだろうか。いやそうではない。ここでは皆が見て見ぬふりをしているのだ。参加者たちはまるで二人の間に何もなかったかのように振る舞い、暴力は見過ごされる。見るという行為(looking)だけでなく、どのように見るのか(ways of seeing)という問題定起を試みるニナ・メンケスの姿勢は挑発的でかつ挑戦的だ。
「Did you like the wedding?」「not really」そしてフィルダウスはニナ・メンケスに返答するかのように自らの意思で式を抜け出しハイウェイへと向かう。いつものようにして腕組みをしている彼女の体にほとんど張り付くようにある布を、通りすぎる車のライトがたまに照射する。そうして一台の車がフィルダウスの前で止まり、彼女を乗せて荒涼とした風と共に風景となりゆく時、私たちは映画の終わりを悟る。だがエンドロールのその後も私たちの人生は続く。映画館を出れば−線路沿いの街並み、デモに参加し声をあげる人々、車道を走る車──それぞれがそれぞれの光景を目にする。ラストショット、ニナ・メンケスはそうした私たち一人一人の視線にフィルダウスと共に何かを託した気がした。だからこそ彼女を乗せた車は画面の向こう側に走り去ったのではないだろうか。
『ニナ・メンケスの世界』公式サイト
下高井戸シネマにて7/6〜7/12まで日替わりで上映