『南』シャンタル・アケルマン
結城秀勇
[ cinema ]
本作終盤に置かれたインタビューの、白人至上主義カルトのメンバーは「旧約聖書に書かれた"ユダヤ人"の文字を"白人"に置き換えていると考えるとわかりやすい」というフレーズは、おそらくこの作品の制作当時よりも2024年のいま見る我々にこそ、身の毛もよだつような恐怖を与えるし、なんなら「わかりづらい」。イスラエル政府の所業に反対する"ユダヤ人"が"反ユダヤ的"という烙印を押されるこの現在においては。
そしてテキサス州ジャスパーの役人(どういう立場か示されていたのかどうかさえ忘れた)が言う、「たしかにここには人種差別がある、しかし他の地域と同じように、他の問題に比べれば比較的小さな問題だ」という発言には、震える。より大きな「他の問題」とはなんなのだろう。まさか「経済」なの?その言葉を聞いて思う。私たちがいまいるここはまさに「南」だったのだと。
学歴詐称も見苦しいまでの資本との癒着も公約を果たさず平気で人を裏切り続けていることもやってる感のために集計方法が改竄されていくデータも生きている間にその大きさに育てることのできない木を伐ることもほんとにそんな信念があるのかすら怪しいのにおそらく打算のために関東大震災の朝鮮人虐殺の歴史を修正しようとすることも、「他の問題に比べれば比較的小さな問題だ」ということなのだろう。ただひとつだけ言っておきたい。あらゆる差別の源泉は、本当に欲しがってすらいないものを妬むことなのだと。ほんとにどうでもいい劣等感を自尊心だと履き違え、あまつさえそれを理由に勝手に傷ついて他人を攻撃することを正当化することなのだと。それが支配的になり、とんでもない災禍を招いた例は歴史上にごまんとある。それがなにかいい結果を導いた例などひとつもない。
しかし、そうして境界線上の向こう側へと悪を追いやってしまうことほど、シャンタル・アケルマンが『東から』『南』『向こう側から』という3本のドキュメンタリーで試みたことから遠く離れてしまうこともない。陳腐なようだが、「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」。そのとき、『南』で繰り返される、後方へ流れ去っていく道路のトラックバックはどう考えればいいのだろう。ジェイムズ・バード・ジュニアがリンチの果てに車の後ろに繋がれ、5kmにわたって肉片を散らばらせながら、首と片腕がほとんど千切れそうになっていくさまを、「差別主義者」たちは嬉々として見つめていたというのか?あるいは罪悪感からそこから目を離したのか?そのどちらの解釈も、アスファルトが遠近法で次第に細く遠ざかっていくあのショットが持つ「深淵」から目を背けているに過ぎない。この、決して直視することができないほどおぞましい、だからこそ決して目を逸らしてはならない過去こそが、アケルマンの描いた「東」であり「南」であり「向こう側」だ。それはありえたのかもしれないどこかの世界線ではない。いまここだ。