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July 12, 2024

『フェラーリ』マイケル・マン                        
堅田諒

[ cinema ]

phonto.jpg 『フェラーリ』鑑賞後におぼえた違和感を率直に記せば、「画面上の人物たちがいったい人間であったのかどうか確信が持てない」、「この映画の世界の人物たちが実在性を持って存在していたのかどうか自信が持てない」というものであった。私が感じたこの違和感は一体どこからきているのだろうか。以下では、この違和感をむしろポジティヴなものとして捉え、本作に対して肯定的な評価を与えたいのだが、その一つの手がかりは、マイケル・マンの人物に対する距離にあると思われる。
『フェラーリ』の物語は、アダム・ドライヴァー演じるエンツォ・フェラーリの私的生活とフェラーリ社の行末をめぐる二つの線が重なりながら進んでゆく。エンツォの私的生活は、二人の女性と二人の子どもをめぐるものだ。二人の女性とは、エンツォの妻・ラウラとエンツォの愛人・リナであり、二人の息子とは、ラウラとの子でフェラーリ社を継ぐはずであったが死んでしまった息子・ディーノと、リナとの子で婚外子である息子・ピエロである。映画の中盤では、ペネロペ・クルス演じる妻・ラウラが夫・エンツォに他の女=リナがいること、そしてその息子・ピエロの存在を知ってゆく展開がじょじょに描かれるのだが、注意したいのは、関係する人物たちの心理や感情を描く方向に映画が完全に振り切られるわけではないことだ。
 たとえば映画中盤、リナの存在を知ったラウラがエンツォに彼女のことを問いただす場面がある。ラウラもエンツォも互いにヒートアップしてゆき、それぞれの言い分と怒りをぶつけあい、死んでしまった息子・ディーノにまで話題が及ぶ。だがしかし、この場面の後半では、ビジネス・パートナーでもあるラウラから委任状と小切手の話題が突然に出され、二人のそれまでの会話の熱量は一気に落ち着いたものになり、映画の温度も急速に下がってゆく。ここでは、熱を帯びたエンツォとラウラのプライベートの会話と、フェラーリの創始者としてのエンツォとビジネス・パートナーとしてのラウラの落ち着いたトーンの会話が連続的に展開されており、前者から後者への移行が一つの場面を構築している。別の言い方をすれば、一方で人物の心理・感情への傾斜がありつつも、他方でそれらが回避されるという事態が生起しているのだ。
 あるいは、エンツォを考えてみても良い。映画前半で、エンツォが息子・ディーノの墓参りをする場面がある。この場面では、エンツォが墓に語りかけ、亡き息子を思って涙を流すのだが、その様子をエリック・メッサーシュミットのキャメラがエンツォを演じるドライヴァーの表情を中心に丹念に捉えている。しかし他方で、教会のシーンを挟んだのちに描かれる、フェラーリ社のドライバー・カステロッティが練習場での事故で亡くなる場面では、事故の直後、エンツォはカステロッティの穴を埋めるために若手ドライバー・デ・ポルターゴに「月曜に電話しろ」とすかさず告げ、社長としての冷徹さと無慈悲さをも見せている(カステロッティの事故から間髪入れずエンツォのセリフへと繋がれる編集がここでは選択されている)。ここにも、人物の感情への傾斜を見せながらも、そこから一定の距離が取られるという傾向がみられる。
 考えるべきは、マイケル・マンの人物に対する独特の距離だ。本作では、マンは一方で人物の心理や感情に寄ってゆくようなそぶりを見せつつも、他方で心理や感情から積極的に身を引き離すような演出や編集をもおこなっているのだ。つまり、マンは「人間」を撮っていながらも、かといって「人間のドラマ」を作品の軸に据えるわけではなく、人物の感情への接近と離反という二重の距離のあり方が存在するのだ。しかし、さらに重要なのは、ほとんど停滞を見せず迅速に物語が語られてゆく本作において、このような二重性が観客にどのような効果をもたらすのかということである。人物の感情への接近と離反という二重性がスピーディーに繰り返し展開されることは、観客に着実に違和感を蓄積させてゆくだろう。この点が、冒頭で記した違和感と関係しているはずだ。
 二重の距離のあり方が高速かつ交互に提示されるのは、翻って、このような二つの距離のあり方自体が無効化されることを意味する。それは、人間であること(死んだ息子に涙を流しながら話しかけるエンツォ)と機械的な人間であること(目の前で事故を起こしたドライバーがいながらも無慈悲な態度を示すエンツォ)自体が相対化されることであり、その相対化の果てに現れるのは、「いったい実在性を持った人間たちであるのかどうかよくわからない」という局面ではないだろうか。見方を変えよう。『フェラーリ』の人物たちは、ホットでもクールでもなく、むしろ「温度を持たない者たち」として存在しているのではないだろうか。
 このように考えれば、本作における人物たちの行動を「取ってつけたような」「不自然な」ものとして捉えなおせるだろう――エンツォの取ってつけたような涙、ラウラのエンツォへの取ってつけたような怒り(とりわけ映画序盤のラウラからエンツォへのいきなりの発砲)。そもそもエンツォとラウラの関係性は冷え切っているのか、あるいは何かしら親密なつながりがいまだ残されているのかよくわからない。息子・ディーノの墓参りの場面では、墓を去るエンツォと墓に出向くラウラのすれ違いが明らかに強調されているにもかかわらず、作中で描かれるセックスシーンはエンツォとリナの方ではなく、エンツォとラウラの方である。そして何より、そのエンツォとラウラのセックスはあまりに取ってつけたように唐突に描かれる。『フェラーリ』は振幅の大きい波形のような映画ではなく、その波形が圧縮された直線に近いような映画である。言い換えれば、それはまるで温度のない「生」がただのっぺりと続く平らな世界のようであるのだ。平板な世界に生きる温度のない人物たち――これがひとまず冒頭の違和感の正体と言える。さらに見よう。本作では「生」だけでなく「死」もまた独特な形で描かれている。
 映画後半、イタリア全土を走破するレース「ミッレミリア」に参加しているフェラーリの若手ドライバー・デ・ポルターゴが運転する車体は、タイヤのパンクによって横転事故を起こす。横転し宙に浮いた車体はそのまま回転しながらレースを見ていた市民たちに直撃し、彼らをなぎ倒していく瞬間をキャメラが捉える。直後、地面に横たわり流血した人、身体の一部を損傷した人、手当に駆け寄る人が次々に示される。現実にあった事故でも、作中の出来事でも、レースを見ていた子ども5人を含む9人がこの事故によって亡くなるのだが、事故に巻き込まれなぎ倒される市民たちの肉体はまるで「ゴム人形」であるかのように処理されている。当然、ポスト・プロダクションでこのような映像の質が選択されているわけだが、事故に巻き込まれた人々がゴム人形のように描かれ、そしてそれが同時に「死」に結びついていることを見逃してはならない。なぜなら、「生」が平板であるこの世界において、「死」もまたペラペラなものであってもおかしくないからだ(宙に投げ飛ばされたカステロッティのあっけない「死」も想起されたい)。
 マイケル・マンの映画とは、ガン・アクションの激しさや男の世界といったフレーズにのみ還元されるべきものではないだろう。マイケル・マンの映画とは、ホットでもクールでもない、温度のない世界であり、人物は奥行きと実在性を持っているのではなく、むしろペーパークラフトのようにペラペラな存在である。画面上の人物たちがいったい人間であったのかどうか確信が持てないことを落ち度として捉えるのではなく、温度のない「生」がただのっぺりと続く平らな世界の現れとしてポジティヴに捉えるべきだろう。なぜなら、そうすることによって、逆説的にエンツォ・フェラーリという人物の得体の知れなさが浮かびあがってくるからだ。この意味において、『フェラーリ』はマンのフィルモグラフィにおける優れた達成の一つと言える。さらに言うならば、マンのフィルモグラフィにおいて一体いつからこのような世界が現れはじめたのかと問うべきだろう。おそらく『パブリック・エネミーズ』(2009)も、『コラテラル』(2004)も、このような平板な世界であると言えるだろうが、では『ラスト・オブ・モヒカン』(1992)あたりはどうかとなると微妙かもしれない(これ以上の検討は別の機会にゆずることとする)。
 ところで、『フェラーリ』において、このような平べったい世界はどのように始まっていたのだろうか。映画終盤、デ・ポルターゴの事故のあと、自宅に帰ったエンツォとラウラのあいだで会話がなされる。ラウラはエンツォに言う――「ディーノはあなたの温かさやウィットを持ってた。人生を楽しむところも似てた」。エンツォと死んだ息子・ディーノのあいだにおける継承の主題がこの会話では示されているが、同様に映画のラストでは、エンツォからピエロに対する継承の主題が描かれる。だがしかし、映画劈頭で、「FERRARI」というタイトル・クレジットよりも前に示される若きエンツォのレーサーとしての姿を忘れてはならない。いまだ「フェラーリ」という固有名詞に代表されることのない個人としてのエンツォの微笑みとまなざし。ペラペラであるがゆえに、その得体の知れなさゆえに、われわれ観客に強烈に張り付くものとしてのエンツォの微笑みとまなざし。『フェラーリ』の平らな世界は、そこから始まっていた。