『ブルー きみは大丈夫』ジョン・クラシンスキー
鈴木史
[ cinema ]
祖母の住むマンションの一室に足を踏み入れる12歳のビー(ケイリー・フレミング)を真正面からとらえていたカメラは、カットが変わると律儀にも彼女の左側に回り込み、その怒り肩でわずかに猫背な、子どもと大人の境目にいる身体を映し出している。彼女の怒り肩に、ある不思議さを伴った親近感を持ってスクリーンを眺めていると、今度はビーの背後にまたぞろ律儀にカメラは回り込んでいる。本作がすでに4本目の長編監督作となるジョン・クラシンスキーのこの律儀さは、果たして喜ぶべきものなのだろうかと思っていると、画面は、ビーの手前にあったソファーの背もたれに置かれた彼女の手が、そのまま布地を撫でながら向かって右側に滑ってゆくのを、落ち着いた横移動で映し出している。それを見て本作が、スティーヴン・スピルバーグ作品の撮影で知られるヤヌス・カミンスキーによる、『フェイブルマンズ』(2022/スティーヴン・スピルバーグ)以来2年ぶりとなる仕事であることを思い出し、ひとまずは画面に目を向け続ける。すでに冒頭クレジットのホームビデオの映像を模したシークエンスから、画面は不思議なまばゆい発光で満たされていたのだが、思えば、このような発光は、『ロスト・ワールド/ジュラシック・パーク』(1997/スティーヴン・スピルバーグ)の頃から、昼とはいえ鬱蒼とした樹木が生い茂る薄暗い密林に差し込む陽光......というよりは照明装置の発光そのものとして、過剰とも思える量の人工のフォグ(霧)とともに、カミンスキーが、筆者を含む世界中の少年少女の目を悦ばせて来たものだろう。スピルバーグ作品におけるまばゆい発光は彼のフィルモグラフィの初期から見られる特徴だが、『ロスト・ワールド/ジュラシック・パーク』における、時には光源不明ですらある発光は、『ザ・フォッグ』(1978/ジョン・カーペンター)を撮りさえしたディーン・カンディの撮影による前作『ジュラシック・パーク』(1993/スティーヴン・スピルバーグ)と比しても、昼夜を問わずまばゆいという点で、明らかに過剰さを増している。『A.I.』(2001)、『宇宙戦争』(2005)、『リンカーン』(2012)、『フェイブルマンズ』の発光が示すものは、「異界」であったり、「公正」であったり、「郷愁」であったりと、その度に移り変わっているかに思えるが、しかし、その過剰な発光は、何かを指し示す以前に、ことによるとそれが照明装置の発光そのものであることを包み隠してさえおらず、そのことがかえって誇らしげですらある。
本作の実質のクライマックスは、その発光が、ビーの祖母(フィオナ・ショウ)を包み込む終盤のシーンだ。すでに母を癌で亡くしている12歳のビーが、祖母に「子供の頃、何になりたかった?」と聞き、「バレリーナになりたかったの」と祖母がかつてバレエを習っていた頃の写真を見せると、そこには触覚を生やしバレリーナの姿をした白黒色のてんとう虫のような"イフ"(イマジナリー・フレンド)のブロッサムが映り込んでいる。ブロッサムに限らず、紫色のもふもふのブルーも、93歳のテディベアのルイスも、本作に登場する"イフ"と呼ばれるクリーチャーは子どもにしか見ることができないのだが、まだ大人になりきれていないビーには、すべての"イフ"が見えている。ビーは、映画の序盤から行動をともにしていたブロッサムが、祖母の"イフ"なのだと気づくと、密かに祖母の古いレコードに針を落とし、ハチャトゥリアンの『スパルタカス』から「スパルタクスとフリーギアのアダージョ」が流れだす。祖母は怪訝に思いレコードプレーヤーに歩み寄るのだが、針を上げようとしたとき、ふと何かを思い出したように、その手をプレーヤーの手前に引っ込める。やがて皺の目立つその手は左右に数度、わずかに揺れ、物語の序盤にビーの手がソファーの背もたれを滑らせていたように、プレーヤーの縁を右から左に撫でてゆき、その勢いのまま彼女は部屋を駆け出す。とうの昔、ちょうどビーと同じくらいの年頃に辞めてしまったバレエを彼女はいま一度踊り出すのだ。すると、どういうわけだろう、ブロッサムの身体からは光が放たれ、いくらニューヨークが摩天楼とはいえ、そこまで夜の外光はまばゆくはないだろうに、窓の外からも光源不明の光が差し、ステップを踏むフィオナ・ショウを満たす。物語上は、再び祖母に「スポットライト」が回帰していると言えるわけだが、それを字義通り再現してしまったかのようなこのシーンの発光ぶりはやはり過剰だ。しかし、「スパルタクスとフリーギアのアダージョ」のなまめかしい旋律も手伝って、ついつい陶然としてしまう。
『ジュマンジ』(1995/ジョー・ジョンストン)にしろ『学校の怪談』(1995/平山秀幸)にしろ、スクリーンのなかで自分と同世代の子どもがヘマをするシーンを見ては、幼時の筆者は苛立っていたが、彼ら彼女らが自分ではなく他者なのだと認めることで、その苛立ちをおさめ成長していったように思う。優れた作品も多いとはいえ、アニメーション映画ばかりが興行の上位を占めるいまの日本にいて、実写とコンピューターグラフィックスの混ざり合ったこのアメリカ映画は、ケイリー・フレミングの魅力的な怒り肩や、フィオナ・ショウの年齢を重ねた手の皺という「私のようで私ではない他性」と触れ合わさせてくれるという点で貴重だ。プロットは必要以上に込み入っていて集中が削がれるし、特に感動で打ちのめされるというような作品ではないが、成熟と未熟の境界を行きつ戻りつするのが人間であるという新しいジュブナイルとしての本作を、カミンスキーの発光ぶりとフィオナ・ショウの佇まいの素晴らしさを確認するためだけに見に行くくらいの余裕は、まだこの国の映画ファンにもあっていいだろう。