『朝の火』広田智大
結城秀勇
[ cinema ]
新しい元号についてのくだくだしい説明がラジオから流れる。天皇という存在の生き死にに関係なく進められる事務的な改号の空疎さがその声から伝わってくるし、本来より前倒しにされた仮想的な死によるはずのその手続きは、来るべき事態を先取りした機敏な対応というよりも、むしろ愚鈍なほどなにかが決定的に手遅れだという感じがする。その感じは、それを伝えるラジオのかたちが、終わりを告げる平成にも、やってくる令和にもまるでふさわしくない、斜めに突き出た金属の棒で電波をキャッチする前時代の遺物のようなラジカセであることと関係しているのだろうか。
といって、ラジカセだけがこの映画の世界でたったひとつ過去の世界に取り残されたかのように古ぼけた姿なのかというと違う。ゴミ焼却場で働く男(山本圭将)の身の回りにあるほとんどのものは、あの隠れ家のような廃墟に積み上げられたブラウン管テレビをはじめとする長方体の電気器具、同僚のジロウ(福本剛士)が職場で集めている供養が必要そうな人形たち、ユキコ(笠島智)の家から運び出す重そうなスチールデスクなどのように、いま終わりつつある時代のものではなくて、とっくの昔にすでに終わっていたはずの時代のものばかりなのだ(たぶん、ユキコが携帯電話を使うわずかな場面以外では、「IT」などという言葉を想起させるものはなにひとつなかったように思う)。
インタビューや上映後のQ&Aで触れられていた、「登場人物はまばたきをしない」という脚本上の注意書きは、おそらくそのことと関係している。また、傾いたり、ズームや移動を繰り返しながら登場人物を追い越して行き過ぎたり戻ったりするカメラも。ほんの束の間目を閉じることすら禁じられた登場人物たちは、絶えずズームやフォーカスを微調整し続けるカメラは、なにを見つめようとしているのだろう。髪を坊主にしたジロウが物語の流れとはまったく関係なしに、いまにもこぼれ落ちそうなほどの涙目になるとき、なぜか胸を締め付けられるような思いがする。たぶん彼ら自身にもなにを見つめればいいのかはわかってはいない。目に映るものはとっくに用済みになったゴミばかりだ。しかし、そこで苦しいほど目を見開かないのなら、はじめからなにも映りなどしない。
それこそが、「青山真治監督に見せるために撮りはじめた」と監督が語る理由でもあるだろうし、元号が変わる年に撮影を行った理由でもあるだろうし、なにより編集に撮影から5年の歳月を必要とした理由であるだろうと思う。映画は決定的に間に合わない。映画は常に遅れる。絶望の塊を砕いて取り出したその一片の信念を、彼が師から継承することなしにこの作品は完成しなかっただろう。この映画はほとんどそれだけでできている。ひとりでも多くの観客に見てほしい。