『フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン』グレッグ・バーランティ
結城秀勇
[ cinema ]
この映画を見た直後でも、月面着陸機イーグルは着陸のときに燃料使い切ったのにどうやって司令船に戻ったの?やっぱ実はフェイクじゃねえのアポロ11号?みたいな思いもどこかに残らなくはないのだが(ChatGPTによると、イーグルは上部下部の二段構造になっていて、燃料を使い果たしたのは降下ステージで、それを切り離して上昇ステージだけで司令船に合流したとのこと)、なんかこの映画はそこがいいというか、別に真実だからよりおもしろいわけでもなければ、嘘だからつまらんということでもないという、映画にとってはごくごく当たり前のことを普通に思い出させてくれる。「誰も信じなくても真実は真実だ」「どれだけ多くの人が信じてもウソはウソね」。
アポロ計画の成功に己の誠実さを注ぎ込むコール(チャニング・テイタム)と、ものを売り込むためなら嘘も平気でつくケリー(スカーレット・ヨハンソン)という対比は一応あるものの、だからといって彼らがそこまで相容れない存在として描かれているのかというとそうではないし、というかそもそも、この映画で真実と嘘はそこまで対極にあるものなのかというのが疑わしい気がする。アポロ計画の資金集めのためにPR専門家として雇われたケリーが真っ先に行うのがインタビューフィルムの制作なのだが、コールの「そんなことに付き合う暇はない」という言葉で協力を拒否されたケリーは、赤の他人である俳優を雇って偽のインタビューフィルムをつくる。興味深いのは、それを見たコールらNASA内部の人たちの最初のリアクションが、いきなり「偽者だ!」という告発をすることではなく、「誰?この人?」とという戸惑いから始まることだ。真実と嘘は必ずしも同じ平面上で対立するのではなく、まったく交わらないなにかとしてあることもある。
だからともすればすれ違いすらしなかったかもしれないコールとケリーなのだが、それでもふたりをつなぐなにかがあるのだとすれば、ものすごく陳腐なことを言うならそれは「ハート」なのだ。コールに隠れてこっそりとタバコを吸うヘンリー(レイ・ロマノ)が心臓の手術をしたばかりだと聞くことから、ケリーは朝鮮戦争の英雄であるコールが宇宙飛行士ではなく発射責任者という立場にある理由が心臓の疾患にあることを知る。一方で、名前も経歴もすべてが嘘八百であるケリーという存在がコールに話したそれだけは本当だという過去の中に、カンザスという地名が出てきたことはたぶんそれと無関係ではない。嘘に塗れたアメリカという地で、はじまりの記憶として語られる場所が「ハート・オブ・アメリカ」と呼ばれる場所であることは。
しかし後にわかるように、フェイクをつくることは「ハート」の問題ではない。どれだけ才能に溢れた人材によって光も質感も完璧に再現されたとしても、フレームの心臓部から外れたほんの隅に完璧さを損なうなにかが映り込んでしまえば、すべては台無しになる。真実を語るためには機能した「ハート」が、フェイクにおいてはそこまでの重要さを持たないということは、なにか現代の我々の生活の重要な部分を物語っているような気もする。
「ポスト・トゥルース」なんて流行語がもはや記憶の彼方に消え去ったいま、デマだろうが隠蔽だろうが支配的に拡散したほうが勝ちみたいなことがあまりに当たり前になっているいま、どっちがどうとかじゃなくてさ、みんな嘘だとわかっていることを大真面目に信じるのも映画の力のひとつだったでしょう?と思う。そしてそれは、ほんのちょっとかもしれないけど、世界を変えてきたでしょう?と。いま、この地球上に欠けているのは、真実と嘘を見分ける能力である以上に、誰がどう見ても嘘でしかないなにかを真っ赤な嘘そのものとして信じ、生きる能力なのではないかと、そんなことを思ってしまう。