『雪』ジュリエット・ベルト、ジャン=アンリ・ロジェ
結城秀勇
[ cinema ]
ステージ上でチューニングのためにボロンボロンと音を出していたベースとギターがいつのまにかジャムりはじめていて、ステージを離れてこのクラブハウスの店内を映し出していたカメラのフレームの中に階下から階段を上ってくるサックスが入り込むときには、すでにそこにまぎれもないひとつの曲があってそれがすごくかっこいい(そして移動を続けるカメラのフレームからサックスの姿が消えるとともに急激に曲がテンポアップするのがめちゃくちゃかっこいい)。この冒頭のクラブシーンは、主人公が働く職場を描写するだけではなく、この作品の本質的な部分を示してもいるのかもしれない。序盤の空手道場(?)のシーンを見ればひとめでわかるように、ジュリエット・ベルトとジャン=フランソワ・ステヴナンがただいるだけで、そこには永遠に見ていたくなるような画がある。さらにジョコを演じるロベール・リンソルがここに加わり、アンサンブルと呼ぶしかない彼ら3人の佇まいが、調子やリズムを目まぐるしく変えながらも、まぎれもないひとつの音楽をともにつくりだす。まるでバンドのような彼ら3人は、しかしながらこの映画の本当の主役ではない。この映画の本当の主役は、バンドとしての彼らが踊らせる対象、すなわち街でありストリートである。
アニタ(ベルト)は、年若い麻薬の売人ボビーの生活を、まるで彼が自分の弟や息子ででもあるかのように心配している。しかしなにがいったい彼女にそうさせるのかといった具体的な情報は、元恋人なのかなんなのか全然はっきりしないウィリー(ステヴナン)との関係や、恋愛感情があるのかないのかはまあどうでもいいとしてとりあえず仲間だというのがしっくりくるジョコとの関係と同じように、詳しく語られることがない(あの巨大な映画館の年老いた映写技師とアニタの謎めいた関係もすごくいい)。誰と誰がどうなんだかがさっぱりわからない前半部分のあらすじを書くのは難しいうえにさほど有益とも思えないので、彼らが代わる代わるリードをとりながら、街中に奏でさせる音響に身を浸していればそれで十分だという気がする。
しかし、麻薬捜査官の追跡から逃げる途中で、射的の露店の空気銃を手に取ったせいでボビーが射殺されるところから、なにかが変わってしまう。情報が横溢しすぎてすべての細部を知ることができなかったはずのこの映画は、それ以降、ぽっかりと空いた空虚の周りをぐるぐると回り続けるようになる。しかし、ボビーというひとつの人格の喪失をこの街が嘆き悲しんでいるようにはとても見えないのだ。この街がボビーの不在を感じる方法はひとつで、それは麻薬がぱったり供給されなくなるということだ。
さすがにボビーが自分で精製していたわけがないから商品を卸していた者がいるはずで、いくらなんでも彼ひとりの不在によって供給がストップするわけはないだろうと思うのだが、たしかおそらく直接的な摂取シーンは一度も描かれなかったはずのこの作品における麻薬という存在のありかたが、非常に奇妙なものであったことにこのあたりで気づく。ボビーの不在でクスリが手に入らなくなったベティは、アニタに向かって、初めての体験の筆舌に尽くし難い悦び、その後の再び手に入れることを望みながら決して叶わないかもしれないという恐怖と絶望、そしてたとえもう手に入れることができないとしてもそれでもただ待ち続けるほかないという諦念を語る。それは麻薬中毒者の心境を切実に描いたセリフであると同時に、彼女が待っているのはただの化学物質ではなくて、もはや「ゴドー」のようななにかなんじゃないのか、という気すらしてくる。
ベティのためにアニタが奔走し、ジョコやウィリーが探偵のような足取りで捜索することで、形而上学的な不在のようにも思えた麻薬は、それにしては意外とあっさりと見つかる。しかしジョコやウィリーが発見をアニタに伝えても、最終的な届け先であるベティまでの道のりは果てしなく遠い。小さな街は入り組んだ迷宮と化し、ある者は袋小路で行き場をなくす。
ジョコたちが画面の奥へと消えていくラストショット、露店が店じまいを始める夜の街路を映した画面の片隅で、雪がチラついている。ヘロインの隠喩である雪がすぐそこにあるように、求めるものは最初から迷路の壁ひとつを隔てたくらいのすぐそこにあったのかもしれない。しかしアニタは(そして彼女を演じた共同監督のベルトは)求めるものを手に入れること以上に、それを困難にさせるこの小さいが複雑な迷宮をこそ愛したのだと思う。
「フランス映画と女たちPART2」8/23〜9/1@東京日仏学院にて上映