『夜の外側 イタリアを震撼させた55日間』マルコ・ベロッキオ
中村修七
[ cinema ]
マルコ・ベロッキオの『夜よ、こんにちは』(2003、以下『夜よ』)と『夜の外側 イタリアを震撼させた55日間』(2022、以下『夜の外側』)は、どのような関係にあるか。また、『夜の外側』の冒頭のシーンをどのように捉えるか。こうしたことについて少し書いてみたい。
『夜よ』と『夜の外側』は、1978年3月に起きた赤い旅団によるアルド・モーロ元首相誘拐事件を共に題材としている。両作の差異としては、もちろん、視点人物の複数化がある。『夜よ』ではモーロを誘拐した赤い旅団に属する女性に視点をおいて描かれていたのに対し、全6話から構成される『夜の外側』では、第1話と第6話を除いてそれぞれ異なる人物に視点をおいて事件の顛末が描かれる。しかし、それよりも重要な差異は、『夜よ』では見られる存在であったモーロが『夜の外側』では見る存在となっていることだ。あるインタビューでベロッキオは、『夜の外側』について、『夜よ』の「リバースショット」だと述べている。そこでの文脈では『夜よ』には登場しなかった人物の視点から事件を描いたという意味合いで「リバースショット」という言葉が用いられているのだが、むしろ、『夜よ』では見られる存在だったモーロが見る存在へ転じたという意味合いで、『夜の外側』は『夜よ』のリバースショットだというべきではないか。『夜よ』におけるモーロは、小部屋に監禁され、小さな覗き穴を通して見られる存在だった。一方、『夜の外側』におけるモーロは、集団あるいは個人と向かい合って相手を見る存在だ。
冒頭に置かれた問題含みのシーンでは、歴史的な事実には即していないものの、赤い旅団による監禁から解放され病室のベッドに横たわったままのモーロが3人の男たちと向かい合う。3人の男たちとは、首相のアンドレオッティ、キリスト教民主党書記長のザッカニーニ、内務大臣のコッシーガだ。彼らがモーロの解放に向けて尽力すべき立場にありながら存分に力を発揮したとは言えないことは、本編で長い時間をかけて描かれることとなるだろう。衰弱して意識を回復していないとされるモーロは、薄く目を開き、涙を流しもするが、3人の男たちを認識できているのかどうかは明らかではない。ただし、ここでは正面から捉えたモーロのショットと3人の男たちのショットが繋がれており、正対して見る/見られる関係が作られている。
このシーンの後にオープニング・クレジットを挟んで続くのは、モーロの誘拐前に時間を遡って、キリスト教民主党と共産党の連立政権成立に反対する者たちが起こす暴動であり、モーロはそれを党本部のベランダから見下ろしている。そこからモーロは党本部内を移動して会議場へと向かい、連立政権に反対する立場からの演説で場内の拍手喝采を浴びる議員を見る。その演説が終わると、モーロが演台に立ち、議場に居並ぶ議員たちを見ながら、連立政権に肯定的な立場を婉曲的に訴える演説をして議員からの賛同を得ることに成功する。見る存在としてのモーロは語る存在でもある。冒頭のシーンでも、監禁中のモーロが解放を想定して書いたとされる手紙を読み上げる音声が重ねられていた。
解放されて病院に収容されたモーロの姿を描く冒頭のシーンは第6話でも繰り返されるとはいえ、まったく同じものではない。第6話のシーンでは病院を訪れた3人の男たちと医師との会話などが省略されており、冒頭と比べると短くなっている。また、第6話のシーンがコッシーガ内務大臣の幻想であったと明らかにされるのに対し、冒頭のシーンは、果たして誰の幻想なのか、いったい何なのかが不明なままオープニング・クレジットの前に放り出されており、映画全編において孤絶した位置にある。
『夜よ』と『夜の外側』は歴史的な事実には即さない非現実を描いたシーンを含むという点でも共通するとはいえ、そのありようは大きく異なる。『夜よ』では、主人公キアラの幻想というかたちで、監禁されている小部屋から夜中に抜け出して室内を歩くモーロの姿が描かれ、終盤では監禁から解かれて街中を歩く姿が描かれていた。一方、『夜の外側』では冒頭で解放されたモーロの姿を描き、そののちの本編で基本的には歴史的事実に即した物語が描かれる。『夜の外側』のこうした構成は、まるで、現実には起こりえなかった歴史の側から現実に起きた歴史を見詰めているかのようだ。『夜の外側』の冒頭のシーンで病室のベッドに横たわるモーロが薄く目を開きながら何かを見ているとすれば、それは、目の前に立って彼を見下ろす3人の男ばかりではなく、『夜の外側』の本編が長大な時間をかけて描く、彼が殺されるに至る歴史なのではないか。赤い旅団によって殺された死者が、自身の死に至るまでの歴史を冷徹に見詰めているわけだ。
『夜の外側』は、起こりえなかった歴史の側から、あるいは死者の側から、現実に起きた歴史を見詰める。死者の眼差しを畏れよ。そのように『夜の外側』は告げているように思う。死者の眼差しに対する畏れを失ったとき、歴史は忘却の彼方に消え去ってしまうだろう。
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