『満月、世界』塚田万理奈
鈴木史
[ cinema ]
『満月、世界』(9月21日(土)よりユーロスペース他全国順次公開)
自身の影のように見えた年長の女性がどこかにいるのではないかと思える街の雑踏に背を向けて去ってゆく聡子(堀春菜)と、これから働きに出る人も多くいるであろう、やや暗くなり始めた夕暮れの新宿の空を映して幕を下ろす『空(カラ)の味』(2016)から8年。監督の塚田万理奈は、成長する子どもたちを10年がかりで16mmフィルムにおさめる長編第2作『刻』を今も撮影中だ。そして、『6才のボクが、大人になるまで。』(2014)のリチャード・リンクレイターに匹敵するそのプロジェクトの折り返し地点として公開されるのが、「満月」(みつき)と「世界」という2本の短編をおさめた本作『満月、世界』だ。
「満月」は長いファーストカットで幕を開ける。カメラはパンとドリーで左右に揺れ動きながら、ダイニングで食事の配膳をする母をとらえている。母が「みつき〜」と娘の名を呼ぶと、中学生の満月がしばらくして手前からフレームインする。母は、彼女に「あれ、聞こえたんだ。音楽聴いてなかったの?」と言葉を投げる。どうやら、満月は、いつもイヤホンで音楽を聴いているのだ。だとすると、「みつき〜」という母の言葉は、娘に届かないことを前提として発せられたことになるが、ならば本作の第一声となるこの呼びかけは、一体どこに向けられていたのだろう。満月が冷蔵庫から豆乳を取り出し、グラスに注いでいると、母は「それ美味しくないよね」と声をかける。満月はそれに答えることなく、豆乳をテーブルに運んでゆくのだが、母も満月の答えを待つことなく、続けて彼女に言葉を投げる。ごくごくありふれた母と娘の会話のようでありながら、だからこそ、そのごくごくありふれた様子に、ふたりのあいだにある曖昧な距離感が見え隠れしている。そのあいだも、カメラは左右に揺れ動いており、食卓で向かい合って座る母と娘を、ときにはひとつのフレームにおさめ、ときにはどちらか一方に引き寄せられながら映している。おかずをのせた皿は、食卓の中央に並べられ、ふたりが箸で自身の皿に、食べる分だけ取り分けてゆく。このひとつの皿に盛り付けられた食事の取り分けを通して、シェア(分かち合う)ということの困難さが、ふたりの会話のぎこちなさとともに、立ち現れてゆく。ワンカットで揺れ動くカメラは、最後には満月に焦点を合わせることで、そのカットを終える決断をすると、本作はひとまず、娘である満月に寄り添うこととなるだろう。
明示的な物語があるわけではなく、夜に家を抜け出して、暗い街路を歩く満月の姿や、クラスメートたちとの曖昧な距離感の会話が、点描のように提示される。なかには、編集前のラッシュフィルムを見ているかのような長さを持ったカットもある。そのカットの長さが、時には、ある異様さを画面に張り詰めさせる。暗い自室を物音を立てぬように抜け出し、ドアの向こう側に消えてゆく満月を前進移動で映したカットの長さや、すれ違うかに見える友人との会話の奥で、ざわめいている木々の存在感などが、なにか不安な予兆のように迫ってくる。こうした不安定性は、主人公に寄り添うことを主眼に置いた「満月」に顕著だ。続く「世界」では、物語の中心人物が主人公以外にもいくぶん分散しているためか、そうした不安定性の印象は、やや和らいでいるかに見える。しかし、やはりひとつひとつの画面に張り詰める不穏さのすべてが払拭されたわけではなく、「世界」の主人公・秋の日常もある脆さとともにあることを示している。
「満月」と「世界」のふたつの短編には、ベッドに横たわって物言わぬ人物や、それぞれ一度だけあるジャンプカットなど、共通する部分がある。「満月」の満月も「世界」の秋も中学生なので当然だが、教室の情景もそれぞれの作品に頻出する。整然と並べられた教室の椅子と机は、『"BLOW THE NGIHT!" 夜をぶっとばせ』(1983/曽根中生)なら生徒たちの反逆でめちゃくちゃになり、『台風クラブ』(1985/相米慎二)なら積み上げられ、儀式めいた静寂を呼び込むことになったが、「非行」と呼ばれた逸脱的行為が古臭いものとなった現在では、その均整は破られることがない。そのなかで、満月や秋は、ひたすら耐えている。教室に響く友人たちの会話は、「満月」冒頭の母の呼びかけが宛先不明だったように、聞こえてはいても「自分に投げかけられたわけではない声」として、彼女たちに響いているのだろう。
「世界」のラストシーン、秋は、折り合いの悪い母が外出中の自宅のアパートで、ベッドで眠っている人物の傍にしゃがみ込み、本を読む。ふと顔をあげ、ある言葉をつぶやく。眠っていると思えるその人物に、言葉が届くかどうかはわからないだろう。でも、届くかもしれない。その曖昧さが、秋に言葉を発せさせた。
カットが変わると、あたりはすでに暗くなっている。風にあおられてわずかに揺れている洗濯物が、夜になっても取り込まれず干されたままになっている。そのことが、秋の家庭の不和の兆候として、やはり画面に不安を波及させる。しかし、ベッドの傍で眠りこけてしまっていた彼女が、おもむろに身体を起こすと、ほんのわずか、窓の外で揺れる洗濯物の向こう側に、ちいさなちいさな白い粒が落ちてきているように見える。秋が窓を開けて外に出ると、それはたしかに、空から舞い落ちてくる雪であった。彼女の傍で揺れている洗濯物は、冷たい外気を吸って、ことによると硬く凍りついているかもしれないことが感じられる。彼女は鼻歌を歌う。この鼻歌をきっかけにして、とある人物との、決定的な画面の切り返しが起きる。ふたりの人物のカットバックは、秋の鼻歌を聴く側の人物の悔しさと期待がないまぜになった表情を映し出す。それが誰であるかは、実際に映画を見て確かめてほしいのだが、このふたりの切り返しは、「満月」のファーストカットの母と娘の会話が絶え間ないワンカットでとらえられていたのとは対照的だ。「満月」のファーストカットは、ワンカットであるがゆえに、二者の間を揺れ動くカメラの運動が、母と娘が主導権を奪い合っているような印象を画面に波及させていたのだが、それと異なり「世界」の最後のカットバックは、ふたりが分け隔てられていることによって、彼女たちは他者であり、しかしだからこそ他者ではないという、決定的な切り返しの基本条件となる逆説を示している。秋の鼻歌を聞く人物にとっては、その音色は自分自身の過去から聞こえてくる音でもある。他者との切り返しを通し、自己の中でも、過去と現在の切り返しが起きている。過去に抱いた期待が回帰することで、悔しさが込み上げ、しかしその悔しさは未来への期待へと再び回帰するのだ。切り返し(カットバック)は、振り返り(ルックバック)へと変換される。鼻歌を聞いた人物にとっては、それが「自分に投げかけられたわけではない声」だからこそ、強く響いた。その人物にとって、秋は関わりのない他人であるからこそ、彼女に期待を全面的にかけることができ、その期待を自分自身にも向けることができるのだ。このラストシーンは、誰もがすれ違いながらも並走しているのだという事実を、ほとんど古典的と言って良いほどの風格で画面に定着させている。
塚田の前作『空(カラ)の味』においても、摂食障害を患っていた少女聡子と、心身のバランスを崩していたやや年長の女性マキとの切り返しが、そのクライマックスに置かれている。川の上の土手を歩く赤いワンピースのマキに別れを告げることで、生きることの苦痛の濁流に溺れかけていた聡子は、その川の澱みから引き上げられたのだが、それがふたりを分け隔てるようなカットバックだったのに対し、先述した「世界」のカットバックを見ていると、『空(カラ)の味』の聡子もマキも、離れ離れになったのではなく、このようにして、それぞれ生きているのだろうということを想像させられる。そのことは、この映画作家が自作を振り返りながら、映画に向き合う意識を更新することをやめずにいることを示している。
これは余談だが、筆者は、『空(カラ)の味』の川で溺れる聡子と川岸をあてもなくふらつくマキの切り返しの場面のなかに、途中から、川に溺れているのはマキで聡子は川岸にいるという立場が逆転したカットが忍びこんでいたと思っていたのだが、あらためて再見してみると、そんなカットはなかった。たぶん、この二者関係を見るうちに、どこか他人事と思えなくなってしまい映画に入り込んでいた筆者のなかで、不思議な反転が起きていたのだ。
塚田は、『満月、世界』の公開に寄せて、「ずっとただ自分が撮りたい自分の事ばかりを撮ってきました。『刻』を撮影しながら、子どもたちと過ごすようになり、『彼らの光を撮らねば。あれは世界の光だ。あの光を残す世界じゃなきゃだめだ。そういう世界であってくれ』と思うようになりました」と語っている。しかし、筆者に「不思議な反転」が起きていたことを思い出すならば、この映画作家は『空(カラ)の味』の時点から、いやおそらく、その人生のはじめから、自分ではなく他者のことを真っ先に考え、そのまなざしで他者を捉え続けていた。それは、優れた映画作家の条件でもあるだろう。聡子もマキも、満月も秋もその隣人も、そして塚田自身やその周囲の人々も、はじめから、分け隔てられた切り返しカットのなかで、他者と並走していたのだ。
『満月、世界』
監督・脚本:塚⽥万理奈
プロデューサー:今井太郎
出演:満⽉、涌井秋、⽟井⼣海、河野真由美、⼭本剛史、池⽥良
配給:Foggy 配給協力:アークエンタテインメント
2023年/⽇本/66分/DCP
9月21日(土)よりユーロスペース他全国順次公開
https://movie.foggycinema.com/mitsukisekai/