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October 13, 2024

『ピアニストを待ちながら』七里圭
結城秀勇

[ cinema ]

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 昨年、45分版を見たときの文章を、「登場人物たちの会話にいきなり挟まれるジャンプカットや、カット間の「性急な」とも思えるつなぎ、そうした「待つ」こととは正反対にも思える方法でこの作品が構築されていること」について機会を改めて書きたい、と結んだのだが、どうもその約束を果たせそうにない。というのも、60分版を見た印象が45分版とはぜんぜん違っていたからであり、かといって「性急な」という印象を与えたなにがなくなったのか、というかこの増えた15分でかつてはなかったなにが生じているのか、などといったことについてなにか的を射たことを書ける気などさっぱりしないので、まあ書けることを書くことにする。
 でも結局、その「性急な」とかつて感じた編集(というかカット割り)について書くわけなんですけれども。あのとき続きとして書こうとしていたことがなんなのかはちっとも思い出せないが、ジャンプカットの挿入とカットのつなぎ方を併記していることからも、間にあるはずのなにかが欠落していることを指して「性急な」と呼んだのであろうことはなんとなく推測できる。だが今回、同じ箇所を見てもそれが「性急」だとは感じなかったのだ。aとbという人物が話している。カメラはaという人物の正面にあたる側にいて、次にbという人物を映す際に反対側のbの正面側へ回り込む。そして再びaという人物を映すために反対側に戻るとき、はじめにaを写した位置とは軸がズレている。ズレているからはじめにaを映したときに見えていた背景とは違ったものが見えて、それが次の展開を呼び込む。a-b-a、と同じ地点に戻ることなく、a-b-a'とズレ込んで行く、そのことを指してかつての自分が「性急な」と呼んだのだとしたら、それは「待つ」ことと正反対というより、むしろ真っ当に「待つ」ことだと思えた、それが突き詰めて言えばこの文章で言いたいことなのかもしれない。
 アンゲラ・シャーネレクはかつて、自作で切り返しという技法をあまり用いない理由について次のように語っていた。「あるショットから別のショットに切り替わり、また元のショットに戻るとき、(空間と一緒に)時間まで戻ってしまうような気がするのです」(アンゲラ・シャーネレク監督インタビュー「帰らざる時間」)。それを踏まえて『ピアニストを待ちながら』を見るなら、5人の登場人物たちにとって、元いた場所に戻れないことによって待つことの必要性が生まれるのだから、彼らを映すカメラの位置が反転する際に、ある軸を中心にした線対象の位置に移動することも元の位置に戻ってくることもないのは至極当然のことのような気がする(さらに言えば、いわゆる切り返しによく似たことが、この映画では窓の反射を利用してひとつの画面で行われていることは前回書いた)。カットの進展という不可逆な要素によって、カメラの置かれた軸がある方向に押し流されていく。それは待つという行為の複合性にどこか似ている。積極的な行為(「これまでにないやり方」で待つ)なのか受動的な状態(「甘いのはどっちだ。いつか来るとか、それを待ってるとか」)なのかがまったく見分けがつかないことに加えて、これは当人の気の持ちようだけで成立するような行為でもないということだ。つまり、その待つ主体を否応なく押し流してしまう時間の流れがなければ、待つことなどできない。
 そこが話をややこしくする。ずっと夜が終わらないこの場所では、死んだはずだと思った友人のいるこの場所では、時間が流れているのだろうか。そのことが、彼らが待っているのが、ピアニストなのか、外に出る方法なのか、朝が来ることなのか、はたまた革命なのかをよくわからなくさせる。さらに瞬介(井之脇海)がぽろりとこぼすように、いつかやってくるかもしれないのは、念願のなにか、とか、待望のなにか、などでは全然なくて、どちらかと言えば来て欲しくない死のようななにかなのかもしれないのだ。佐々木敦、岡室美奈子との鼎談の中で、七里圭は次のように語る。「やはり今って未来が喪失しているような気がするんですね。希望とは、未来があるからこそ希望になる。だから未来がない中で、これからどのように希望を持ったらいいのか?」。
 それでもやはり、『ピアニストを待ちながら』の図書館には時間が流れているのだと私は思う。朝が来ず、変化をただ待つほかないようなこの場所でも、不可逆な変化な起こる。瞬介は突然現れて、行人(大友一生)は再び姿を消す。そして、たぶんその不可逆な変化となんらかの関係を持ちながら可逆的な変化も起こる。貴織(木竜麻生)の服はいつのまにか目も覚めるようなブルーの上下に変わっていて、またいつのまにか元のドット柄の赤いカーディガンに戻っている。してみれば先の七里の発言は、時間そのものがないことより、時間は流れているのにそれを測る指標がないことの方が絶望的だ、というふうにもとれる。
 だから、彼らが待たなければならないのがピアニストである理由とは、彼らが演劇を上演しなければならない理由とは、そしてこの作品が映画である理由とは、茫洋と広がる起伏のない時間の堆積になんらかの指標をもたらすためではないのか。だから、いつも笑顔の裏に混乱や後悔や罪悪感が影のように滲む貴織が、瞬介のピアノに合わせて踊るときには、行人の無表情に対して不必要なほど屈託のない満面の笑みを浮かべていたのなら、出目(斉藤陽一郎)じゃないけどもうそれ、瞬介がピアニストでいいじゃん、とも思うのだ。
 そんな単純な話ではないかもしれない。そしてこのような印象はやはり、45分版と60分版の違いから感じたというよりもむしろそれを見る私の変化なのかもしれなくて、ただ待つことについての考えが時間とともに変化しただけなのかもしれない。かつてより待つことがよくわかったなどと言うつもりはない。ただ、最初に芝居の練習をはじめようとするとき、貴織に「絵美さーん」と呼ばれ、「はいはい」と出てくる絵美(澁谷麻美)のようになにかを待ちたいものだ、といまは思っている。

渋谷イメージフォーラムにて上映中

  • 『ピアニストを待ちながら』(45分版)七里圭 | 結城秀勇