『監督のクセから読み解く名作映画解剖図鑑』廣瀬純
結城秀勇
[ book , cinema ]
10年ほど前、廣瀬さんと「シネ俳句」で世界進出を企てたことがあった。「シネ俳句」とは、ある一本の映画のある場面(ここが重要、あらすじや感想を書くわけじゃない)を5・7・5で記すものである。だが、自分で提唱しておきながら一句も「シネ俳句」を詠まない宗匠・廣瀬に向かって、不肖の曾良たる私・結城は、ある日次のように問うたのだった。「俳句だと季語とか必要ですし、川柳とか短歌のほうが気が楽じゃないですか」。それに対して宗匠はこう答えた。「季語なんてどうでもいいよ!ハイクは世界共通言語だよ!世界進出するなら俳句じゃなきゃだめだよ!」。
とそんなことを思い出したのは、タイトルにも掲げられ、この本の主役でもある「クセ」のせいである。クセとはなにか。「各監督の仕事をそのように特徴づけているもの、監督一人ひとりの独特な演出方法を、本書では"クセ"と呼ぶことにします」。ふんふん。......いやクセってなんだよ!「作家性」とかなんかもっとそれっぽい用語あるじゃん。でも一応ちゃんと説明するならば、「作家性」という言葉の源流である「作家主義」とは、1950年代、後にヌーヴェル・ヴァーグと呼ばれる監督たちともなる「カイエ・デュ・シネマ」誌の同人たちとともに始まった政治運動であった。一部の好事家にしか認知されていない監督という職能を、他の諸芸術を模倣して一本の映画の中心に仮に据える。「作家」とは映画という限定された領域を外へと拡張させるために用いられた概念のはずだった。しかし時は流れ、星の数ほどあまたいる「作家」のぶんだけ等しく「作家性」があることになってしまった昨今、それはもはや規定の領域を再強化するだけの、内へ向かう用語でしかない。そんな言葉を避けて廣瀬が"クセ"という語を用いたというのはこの本の立つ位置を示していると思う。
いやでもやっぱり"クセ"ってなんなんだよ......。しかもタランティーノのクセである「クソ」とも似てるし......(そしてそれこそが廣瀬がこの語を選んだ決め手である気もする)。なんだ、無意識とか、身体性みたいなことが重要なのか?そんなことを悩みつつこの本の中身を紐解いていって、ふと思った。"クセ"ってそれ自体が、イーストウッドについて語られる「疑いの眼差し」なんじゃないかと。この本において、「眼差し」とは一言で言って、集団形成の可能性である。イーストウッドの次の項、小津安二郎のくだりで詳しく語られるように、プラトン式サイド・バイ・サイドもレヴィナス式フェイス・トゥ・フェイスも、眼差しによる集団形成の方法だが、しかし眼差しなんてものに囚われているようではまだまだなのだ。っていうかそもそも、カット割や人物間の配置から想定しうるもの程度の登場人物間の眼差しなんて、廣瀬は1mmもその存在を信じてなどいないはずで、だからこの本でクセとして「眼差し」が問題になるときには、イーストウッドにしろヒッチコックにしろ、観客が映画に向ける眼差しを問いただしているに他ならない(だから『愛のそよ風』のところを信用しすぎてはいけない)。観客と映画との集団形成を、いまいちど疑いのもとに二重化し、分断すること。それこそが廣瀬純がこの本で"クセ"の名の下に行っていることだ。この本では取り上げられていないひとりの監督、もしここにジャン=リュック・ゴダールの章があったなら廣瀬はこう書いただろう、革命はふたつをひとつにすることではなく、ひとつをふたつにすることから始まる、と。
難しい用語は使わず、ですます語り口調で、初心者にもとっつきやすい。それが本当かどうかはわからないが、この本によってこれまでそんな映画の見方をいままでしてこなかった人がひとりでも"クセ"の道に引き込まれることになるなら、それほど喜ばしいことはない。でも、それを期待しつつも我々が目下の懸案事とすべきなのは、万人総作家となったこの世界で映画と観客との間の共犯関係を、"クセ"という「疑いの眼差し」とともにいま一度揺るがすことだ。
だからこそ、問われる。「疑いの眼差し」の人イーストウッド、9.11以降の疑念と分断が加速する世界でなお共和党支持を一貫して明言し、ジョン・エドガー・フーバーの映画もネルソン・マンデラの映画も硫黄島についても(日米2本)映画を撮ってきた彼については、これからも「疑いの眼差し」とともに、私は語り続けるだろうと思う(というか、監督イーストウッド以前に、俳優イーストウッドの"クセ"は、彼が守るべき人間より、彼が殺すべき人間に、彼自身が似ているということだ)。だが、「これまで登場した黒人は世界のクソ性を引き受ける存在でしたが、別に黒人そのものがクソだというわけではありません。歴史的に見て、黒人は世界のクソ性から大きな被害を受けた存在です」と註に書かれるクウェンティン・タランティーノの、昨年10月以降ことさらに明らかになったイスラエル軍の広告塔的な振る舞いを前に、これまでと同様に語れるのかというと確信が持てない、というか少なくともやる気が起きない。この世界の現在のクソを凝縮したようなクソを目の前にしてそんな振る舞いができるなら、クソを低く見積もったはずの宮崎駿よりもはるかに見下げたものだと思う。黒人のクソ性を借りながら、パレスチナのクソ性をなかったことにするなら、そんなの世界にクソを売り渡したも同じじゃないか。
そうやって、この本が初心者向けのガイドブックだろうと高を括った我々は足元を砕かれる。そうやってこの、踏み絵のふりをした地雷のような書物の前で、我々の集団形成のあり方は、木っ端微塵に打ち砕かれて、そこから先を考えねばならなくなる。パースペクティブが、境界が歪むその中で、アライグマの芋洗いのように、いやむしろユクスキュルが書くマダニの落下のように、盲目的な跳躍としての一歩が必要となる。ああ、そうかそれが"クセ"じゃないか。「どちらかというと、黒沢清の映画を見る我々のほうが、ちょっとしたクセを身につけることになります」。
ちなみに冒頭の「シネ俳句」の話には続きがあって、後日思ったのだ。映画のある場面について書くなら、それは必然的にある空間的に限定された景色の上に、時間的な限定を重ねるということで、それってもはや「季語」じゃん、と。ここでもやはり宗匠の見立ては正しかった。「監督」だろうが「作家」だろうが、「クセ」だろうが「作家性」だろうが、「図鑑」(『イングロリアス・バスターズ』的なタイトルに偽りあり)だろうが「列伝」だろうが、いずれにしても我々は、限定された空間と時間の重ね合わせという、暗闇にぽっかりと出現した光目指してぴょんぴょんぴょんぴょん飛び跳ねているに過ぎないのだ。