『SUPER HAPPY FOREVER』五十嵐耕平
三浦光彦
[ cinema ]
クラブ帰り、小腹を満たすためにコンビニで買って食べたカップラーメンがおいしいと思えるだけで、「永遠にずっとめちゃくちゃ幸せ」なはずなのに、そんな「当たり前のこと」を「SUPER HAPPY FOREVER」とか英語に翻訳(=交換)して、余剰価値を発生させているのがムカつく。だから、その余剰で生まれた金色の指輪を佐野は映画のフレームとフレームのあいだに捨ててしまったのだろう。
佐野は古着屋のまえに落ちていた赤い帽子を拾う。それはただそこに落ちていただけなのか、それとも古着屋の店外に置かれたラックから落ちてしまったのかは、凪の言うとおり「微妙」だけれど一応、佐野は古着屋店員に聞いてみる。店員は怪訝そうな顔をしながらその帽子に、1000円といういかにも適当な値段をつけて紙幣と帽子を交換する。そして、佐野は凪にその帽子をあげる。もし帽子が売りものではなかったとしたら、佐野はただ1000円を手放したことになる。それはインチキくさいセミナーが「永遠にずっとめちゃくちゃ幸せ」を「SUPER HAPPY FOREVER」と翻訳して、「当たり前のこと」をあたかも奇跡みたいに誇張して価値を付与しようとするのは対照的で、ただの何の見返りもない純粋な支払いだ。
フレームとフレームのあいだに消えていったものが、フレームとフレームのあいだからひょこっと現れたら、それこそ奇跡かもしれない。この映画はそんな奇跡を、つまり凪がフレームとフレームのあいだに失くしてしまった赤い帽子が再び現れてくれるのを、待ちつづける映画だ。そして、その赤い帽子は映画の終盤で鏡の中からふいに現れる。そうやって赤い帽子が現れたことを「奇跡」と名付けていい気もするけど、もうちょっと考えてみたい。もし消えてしまったものが再び現れることを「奇跡」と呼ぶのであれば、奇跡はもっとずっと前に起こっていた。フレームとフレームのあいだによくモノを落としてしまう人物である凪は、ライターを他のいろんなモノと同様に失くしてしまった。だけれど、凪はそのライターが商店街に落ちているのを見つける。いや、そのライターはおそらく凪が失くしたものとは違うのだろうが、失くしたライターと道端に落ちてたライターが同じものか否かなんてどうでもいい。ライターという点においては、失くしたライターも道端に落ちていたライターも似ているのだから。
ならば、「奇跡」が起きるポイントは、失くなったものが現れるという点にあるのではなくて、失くしたものと現れたものとを同じものだと勘違いできる能力にこそあるんじゃないか。だとしたら、失くしたはずの赤い帽子が現れたというのが「奇跡」なのではない。そうではなくて、夕陽がつくりだす影のなかで佇む赤い帽子を被ったアンの姿を、消えてしまった凪の姿に取り違えてしまう、私たちの勘違いの能力にこそ「奇跡」は宿るんじゃないだろうか。
しかし、決してこの「奇跡」はタダで起こったわけじゃない。落ちていただけかもしれない帽子に1000円を支払ったからこそ赤い帽子は特別(=誕生日プレゼント)になりえた。凪が弁当を落としてしまったアンに無償でポケットに入ってたお菓子をあげたから、凪とアンの繋がりは客と従業員という関係を超えて特別になりえた。佐野と凪、ふたりの純粋な支払い(=贈与)が帽子とアンとを結びつけて、アンは「海を越えて(Beyond the Sea)」死者に似ることができる。
だけど、アンの姿を死んでしまった凪と勘違いするのは観客だ。この「奇跡」は佐野にもアンにも気づかれることはないだろう。たったの1000円を支払っただけで、ただ余ったお菓子をあげただけで、ただ赤い帽子を見つけただけで、「奇跡」が起きているなんて誰も思わない。彼ら全員を見渡せる観客だけがその「奇跡」に気づくことができる。誰かの純粋な支払いのそのさきで、誰かが勘違いして、誰にも気づかれずに奇跡はどこかで起こっている。そうやって世界は誰にも知られずに繋がっている。この映画は劇中のいかがわしいセミナーと同じ名前をタイトルに掲げているけれど、たった鑑賞料金1000円か2000円程度でそんなふうにしてこの世界を少しでも信じることができるのなら、そんなのは安い支払いだ。
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