『灼熱の体の記憶』アントネラ・スダサッシ・フルニス
浅井美咲
[ cinema ]
『灼熱の体の記憶』は、コスタリカに住む60~70代の女性たちが、自らの人生を振り返り、また今の自分を見つめながら、自らの性とどう向き合ってきたか、何に苛まれ、何を欲してきたのかを語る作品だ。しかし、彼女たちは匿名を希望したために、映像自体は少女期、若年期、老年期(現在)など時期に分けて俳優が演じており、複数人の女性たちによるヴォイスオーヴァーが背後に流れる構成になっている。すなわち、ストーリーは彼女たちの実話でありながら、映像では、女性たちの人生に起きたことを体験する、ある架空のひとりの女性を役者たちが演じる、ということになる。
「祖母とは決して話すことができなかった話」をこの映画の中で明かすこと、彼女たちが匿名を希望したことなど、映画の前提のような情報が黒い背景に文字で語られ、「Memories of a Burning Body」というタイトルが浮かび上がる。その後カットが切り替わると、一人の年配の女性が扉を開けて我々の目の前にやってきて、背後から差す光のために画面がパッと明るくなる。この光から送り出されるように現れる女性を見れば、なんとなく彼女がこの物語の主人公となる人物であることを察するだろう。彼女はまるで幽閉されたかのようにいつも広い一軒家の中にいて、アルバムの整理をしたり、掃除をしたりしている。舞台となる家には壁を埋め尽くすほどの写真が飾られ、アルバムや本やらが床に無造作に置かれていて、長年誰かが住んできたことがわかるだろう。細長い廊下の脇には枝葉のように部屋がいくつか並ぶ。
そして、女性たちがヴォイスオーヴァーで自らの過去について語る時、必ずこの家の中で回想シーンが挿入される。ある時は突然開かなくなった風呂場のドアが幼少期に閉じ込められた部屋のドアノブに繋がり、ある時は年配の女性を映していたカメラがゆっくりと横に旋回した先に若い頃の彼女が現れ、ある時は年配の女性がレコードの整理をしている同じフレームに少女時代の彼女が走ってやってきたりもする。少女時代に両親や弟と過ごすシーンも、成長して夫と結婚して暮らすシーンも、年配の女性が一人で暮らす家と同じ家で撮影されていて、この家が女性たちの人生を語る上で切っても切り離せないものなのだとわかる。さらに、学校の教室や映画館など家以外の場所で撮影しているシーンもあるのだが、屋外で撮られているシーンは一つもない。どの時期の彼女たちも、常にどこかの空間に押し込められた状態で存在している。
また、度々カメラが被写体の動作に関係なく動くのには、思わず目を引かれてしまう。例えば、棚の埃を叩いて掃除をしている年配の女性をカメラが捉えるのだが、彼女は特に移動していないにも関わらず、カメラはゆっくりと横に移動しながら被写体を捉える。このような、被写体の動きに比例しないカメラの動きを見た時、この家に暮らす彼女と共にあるような「何か」を感じずにはいられない。強固な家父長制の下、彼女たちはいつか「妻」になるため、いつか「母」になるために育てられ、結婚して子供を産んだ後は、ほとんど手助けもない中一人で育児をしなければならなかった。彼女たちは長く家の中に留まり続けるから、彼女たちがこぼすため息も、時に流したかもしれない涙も、この家にはずっと漂っているのだ。『灼熱の体の記憶』において、家は家父長制を暗示する檻のようなものでもありながら、清原惟『わたしたちの家』の家にいる何かのような、念のようなものを持っていて、彼女たちの人生を記憶し続けるような存在でもある。
だがだからこそ気になるのは、映画の終盤で、年配の女性がドアの鍵を開けて家の外に出る場面である。それは家父長制のイメージと分かち難く結びついているこの「家」から抜け出した、自由や解放を意味するラストのように受け取れるが、複数人の女性の人生を代弁してきた彼女にわかりやすい「解放」のイメージを与えるのは少し大味だと思ったし、これからも未だ見ぬ人生を生きてゆく実在する女性たちに対して、不誠実になりかねないとも思う。
それでも、少女期の、若年期の、老年期の女性たちに寄り添い続けてきた / いる存在であるこの「家」が、沈黙を破り、これまで語ることができなかったことを初めて語り始める女性たちを見守っているように見えてくることはなんとかけがえない。そんなことを思ったりもしたのだ。
第37回東京国際映画祭にて上映