『HAPPYEND』空音央
金在源
[ cinema ]
今年の9月、イタリアで開催されたヴェネツィア国際映画祭において本作『HAPPYEND』のワールドプレミア上映が行われた。上映後には監督である空音央がパレスチナの伝統的なスカーフ「ケフィエ」と連帯を示すワッペンをつけて登壇したことが話題になっており、私も気に留めていた作品の一つであった。
衆議院議員選挙の投開票日、選挙権を持っていない私はSNSで開票速報についての話題が飛び交うのを横目に、本作を鑑賞した。なんの前知識もなく見始めたが、物語の序盤でコウ(日高由起刀)という学生が在日韓国人であることが分かり私は一気に画面に引きずり込まれた。
警察から特別永住者証明書の提示をしつこく要求される様子や、デモに参加し、自分以外の人間は何も考えていないと失望するコウの姿はどれも私が10~20代に経験してきたことと通じて、他人事のようには思えなかった。
近未来の日本を舞台としている本作は、監視システム下で生きる二人の幼馴染ユウタ(栗原颯人)とコウを描いている。そんな二人の生活環境や考え方は対照的だ。
コウの家は韓国料理屋を営んでおり、裕福とは言えない。店には労働者階級の人々が集まり、店先には「非国民」と書かれることもある。マイノリティであるが故に教師から差別され、不当な扱いを受けることに疑問を抱き始めるコウは、社会運動と出会う。自らが行動を起こし社会を変えようとする人々と関わることで、コウ自身にも変化が訪れていく。
一方でユウタは、このようなストーリーにありがちなマイノリティに理解のあるマジョリティという描かれ方はしない。海外を飛び回る母と高層マンションに住んでおり裕福であることが伺える。社会を変えようとしてもどうせ変わらないのだから、みんなが楽しく過ごして死んでいくことができれば満足であると彼は語る。コウは何度も自分の思いを伝えようとするが、ユウタはいつも聞く耳を持たない。彼を見ていると、この社会の中で「変わらない」でいられることは一つの特権であると気付かされる。そして、変わらないで居続けたい彼の思いの裏側には変わってしまうことへの恐れが垣間見える。ユウタはコウを理解できないふりをしてその気持ちをやり過ごしている。
二人は音楽研究部に所属しており、制服を改造して着るアタちゃん(林裕太)、台湾から移住してきたミン(シナ・ペン)、黒人ルーツのトム(ARAZI)を加えた五人でいつも活動をしている。彼らは深夜の部室に忍び込み、爆音でテクノをかけ朝を迎えるという毎日を過ごしている。規則を守らない彼らは教師たちから煙たがられ、最終的に彼らの居場所であった部室は学校という権力によって奪われてしまう。
コウが、外国籍であるという理由で教室を追い出され抗議を行う友人たちにキンパ(韓国の海苔巻き)を差し入れるシーンは印象的だ。校長に出された寿司を拒む友人たちが当たり前のようにそのキンパを受け取り、喜びながら分け合っていた様子が心から離れない。変わっていくコウは、この社会によって変わらざるを得なかった人間であるとも言える。そこで彼が、友人たちに差し出したキンパは、どんなにコウが変わっても、変わることない彼自身のルーツである一方で、日本に生きるコウの特別ではない日常の象徴でもあるのだ。そしてその日常の延長線上にいる友人たちも、それを特別なものとしてではなく、当たり前のように受け取り、分け合った瞬間のように見えた。
本作は近未来を舞台にしているが、間違いなく現在を生きる私たちの社会を映し出したものである。私自身、学生の頃、授業で植民地支配の歴史を学んだとき、拉致問題についての話を聞いたとき、私は自分がこの場所にいてはいけないような気がして顔を上げられなかったことがある。日本で生まれ周囲と同じように生きているのに、日本国民の皆さん!と政治家が雄弁に語るとき、その国民の中に自分は含まれていないのではないかと気付いた日を思い出す。まるでここに存在していないように扱われる人々が確かにこの社会にはいるのだ。
物語の終盤、楽しく過ごせればいいと語っていたユウタが、コウをかばうために一人で罰を引き受けるという出来事が起こる。これはユウタなりの変わらない社会に対する抵抗であるようにも見えた。社会を変えるという思いと目の前の友人を助けたいという気持ちに大きな隔たりはないのではないだろうか。離れてしまったと感じる二人の距離はそれほど遠くないのかもしれない。
本作はタイトルとは違い、その結末において作中に生じた物事が解決することはない。権力は倒れず、生徒を抑圧する構造はそのまま残り続ける。そしてユウタと在日であるコウを含む、多様なルーツとアイデンティティを持つ生徒たちは、社会の抑圧の中を歩き続ける。しかしそのような描写の中にこそ、私は社会から見落とされがちな存在への、注意深い関心と視線を感じることができた。そのような視線を注ぐ人がいることはこのような社会を生きる私にとっては希望だ。差別や分断、そして虐殺が止まらない世界の中で私たちはそんな希望を拾いながら、本作では描かれなかったハッピーエンドに向かっていけるだろうか。