『ヒットマン』リチャード・リンクレイター
結城秀勇
[ cinema ]
早稲田松竹で『フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン』と『フォールガイ』と併せての三本立て。もちろんこれら3本が登場人物たちが虚構と現実の狭間で奔走するコメディ三本立てなのはあらすじから誰もがわかることなのだけれど、その表面的な物語以上に、2024年のアメリカ合衆国大統領選挙(及び日本在住の人間にとっては兵庫県知事選)の後に見るなら、楽しく見終わった後にひとつの思いが浮かび上がってくるのを止められない。なんでわたしたちはこんなにもフィクションを信じる力を失ってしまったんだ?と。この3本が興行的大成功とはいかなかったこと(とりわけ『フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン』の大コケが、ジョン・ワッツ『ウルブス』の日本公開中止を導いたことには未だに愕然としている)は、先に挙げた選挙の結果とともに現在の世界の姿として記憶されるべきだ。だから以下に書くことは、『フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン』について書いたこととほぼ同じだ。
大学教員として働くかたわら、趣味の電子工学の技術を活かしてニューオリンズ警察の囮捜査に協力するゲイリー・ジョーンズ(グレン・パウエル)。盗聴器機等の製作運用役として雇われていたはずが、前任者の懲戒処分で囮捜査官の役回りをすることに。彼が殺し屋を演じることで、殺人依頼の現場を取り押さえるというからくり。
しかし、はて、と思うのだ。どういう仕組みでゲイリーに殺人依頼の連絡がくることになっているのかはよくわからない(しかも私用の携帯に)のだが、これってそもそも「まだ起こっていない」殺人なだけでなく、「この先も起こらないかもしれない」殺人の依頼なのだ。もちろん、ゲイリーが演じているようなプロの殺し屋が他にもニューオーリンズのどこかに住んでいるのかもしれないし、依頼者たちが5000ドルくらいで殺しを請け負ってくれる素人とやがて巡り会う可能性だってあるのだろう。まあ仮にも大金を用意して殺人依頼をするくらいなのだから、依頼人たちは一点の汚れもない無実ではないとしても、だとすれば彼らの罪はいったいどこにあるのか。誰かを殺そうと思ったこと?資金や手段を用意して計画を立てたこと?もし機会がなければ実現することもなかったかもしれないのに?
たしかにそこが後の裁判の焦点になる。ゲイリーの囮捜査自体が依頼者たちを「誘惑」していたんじゃないかと、弁護士は攻撃する。しかしこれは作品内における倫理の問題としてはそこまで大きなことじゃない。この作品が問題にするのは、ゲイリーが意図的に依頼者が求める人格を演じたこと、他人の欲望を満たす架空の人間になりきることで、間接的に自らがそうなりたい自分を見つけ出すこと、だからだ。
だからマディソン(アドリア・アルホナ)とゲイリーが初めて出会う場面ですでに、大事なことはすべて示されている。「あなたを喜ばせます」みたいな店名のダイナーで、それまでは殺し屋と依頼者を結びつけるだけのなんの意味も持たない合言葉にすぎなかった「すべてのパイはおいしい」と言うセリフが、はじめて目の前にある現実のパイと結びつき、そして「ほんとうに」そのパイがおいしいとわかるとき。起こるかどうかもわからない殺人の依頼そっちのけで、目の前にいる犬を介して、犬派か猫派かみたいな会話が繰り広げられるとき。ロンという殺し屋が架空の人物だろうが、ゲイリーはほんとは猫派だろうが、そもそもこのパイがおいしいのは「ほんとうに」ほんとうなのか、なにが嘘か真実かなんてそんなどうでもいいことはほったらかして、この場面で映画的ななにかと呼びたくなるものが一気に駆動するのは誰の目にも明らかだろう。
そしてその映画的ななにかこそがこの作品のストーリーにとってクセモノなのだ。冒頭で「"やや"真実に基づく」みたいな文言が出てきたときには、「はいはい、いつものやつね」くらいでろくに気にも留めなかったが、終盤になって「え、でも真実に基づくんだったらこっからどうやって終わんの?」とハラハラする。だが、とくになにも起きない。ビックリするくらいなにも起きない。え、"やや"ってそこまで"やや"なんすか!
まあ実在のゲイリー・ジョーンズはベトナム帰りなのだから、iPhoneのメモをプロンプト代わりに即興演劇なんてシーンが現実には起こらなかったことは時代的に明らかで、あらゆる細部がそうだってことはちょっと考えればすぐわかる。そして何度も言うがそんなことはどうでもいい。わたしたちは、より真実らしいから信じるわけでも、より嘘っぽいから信じないわけでもない。わたしたちの問題は、なにが真実かを見つけられないことでも、嘘に騙されてしまうことでもない。つくりものでしないなにかをまさにつくりものとして信じる、その力が欠如していることだ。9.11およびイラク戦争の頃から世界を席巻してきた「真実に基づく」映画群を、この映画の「"やや"真実に基づく」が木っ端微塵に蹴散らしてくれたような気が個人的にはしたのだが、しかし世界の現実はそうなってはいないのだろう。