クリント・イーストウッドの編集:ジョエル・コックスとゲアリー・ローチへのインタヴュー
[ cinema ]
以下に訳出したのは、2009年に「マルパソの男たち:ジョエル・コックスとゲアリー・ローチの感情のリズム」という題で公開されたインタヴューである。映画編集者のジョエル・コックスとゲアリー・ローチが、クリント・イーストウッド作品の編集について語っている。
別のところでコックスも証言しているように、イーストウッドは基本的に「編集のしかたまで決めたうえでカメラを回す(camera-cut)ことはせず、あらゆる角度から場面全体を通して撮影しておく」(Justin Chang, Film Craft: Editing, 2012)タイプの映画作家だ。どのようにつなぎ合わせることもできる大量の素材から映画を切り出してきた編集者の役割は、イーストウッド作品を考えるうえで特に重要である。インタヴューは16年以上前のものだが、話題も内容も充実しており、これまでとこれからのイーストウッド作品に対する有意義な視角を提供してくれるだろう。
とりわけ最新作『陪審員2番』(2024年)の編集----ジョエル・コックスと息子のデイヴィッド・コックスが担当した----は、位置づけの異なる映像や音声を辻褄の合わない断片として並べ合わせながら、自らはあくまで透明を装っているような印象を与える。透明なつなぎ間違いとでも呼べそうなこうした事態は、撮影や編集の過程でどのようにして生じたのか。二人の編集者の言葉はこの点でも示唆に富んでいる。
ジョエル・コックスは1976年にザ・マルパソ・カンパニー(イーストウッドの製作会社。現マルパソ・プロダクションズ)に加わって以来、『陪審員2番』までほぼすべてのイーストウッド作品の編集に携わっており、『許されざる者』(1992年)ではアカデミー編集賞を受賞している。ゲアリー・ローチは編集アシスタントを経て『硫黄島からの手紙』(2006年)でコックスの共同編集者となり、以後『アメリカン・スナイパー』(2014年)までの作品をコックスとともに編集した。
インタヴューはマルパソ・プロダクションズ内にあるコックスの編集室にて、マイケル・カンケスによって行われた。ともに2008年公開の『チェンジリング』と(インタヴュー時点では完成前だった)『グラン・トリノ』が中心的に取り上げられている。
----お二人は最初の機会をどのように得たのですか。
ジョエル・コックス(以下、JC) クリントと仕事をしに来た1976年、私が編集でクレジットされていたのはウォルター・トンプソンと共同で編集した『さらば愛しき女よ』(ディック・リチャーズ、1975年)だけでした。その年にクリント組常連の編集者だったフェリス・ウェブスターが病気になり、『アウトロー』(1976年)の最終編集を引き継ぎました。こうしてクリントと私の関係が始まったのです。フェリスが1982年の『センチメンタル・アドベンチャー』を最後に引退するまでは彼と共同で編集を行い、翌年の『ダーティハリー4』でクリントの単独編集者の座を引き継ぎました。
ゲアリー・ローチ(以下、GR) クリントは何年もの間、何か場面の編集をしているのかと私に聞いてきましたが、私はアシスタントの仕事で手一杯でした。私に転機が訪れたのは2006年、クリントがジョエルの『父親たちの星条旗』の編集作業と同じ時期に『硫黄島からの手紙』の撮影を始めることに決めたときでした。クリントは『硫黄島からの手紙』で私が共同編集者になることを強く望んでくれたのです。私は「いいぞ、初めての編集が日本語の映画になりそうだ」と思いました。編集室のジョエルと私に通訳をつけてくれるかどうかをクリントに聞いたところ、「いや。君たちで何とかするんだ」と言われたのを覚えています。
----ジョエルさんは、習得してきた技術をどのように伝えているのですか。
JC 私がゲアリーに教えた方法は、私がアシスタント時代に学んだものです。ラッシュを確認してから、実際に場面の編集に取りかかる際にはテイクを一つずつ流し、1~2ページの手書きのメモを作成します。各テイクにおいて重要な点----感情、気持ち、登場人物の顔の表情、人物の動き、撮影のアングル、テイク番号----をすべて書き留め、その場面の道筋を示すバイブルとするのです。
----クリント・イーストウッドとの仕事は、典型的にはどのようなプロセスをたどるのですか。
JC 私たちが撮影現場に行くことはありません。私たちはここで映像を確認し、見たものについてクリントと議論をします。ゲアリーと私でそこから1週間ほど映画を編集し、作業した分をクリントに送ります。彼が変更の提案を出し、私たちで先へ進めます。しかし、どこをカットし、どの場面やアングルを使うかについて、クリントは決して指示をしません。責任は大きいですが、信頼も大きいのです。彼が最初のカットを見る頃には、すでにかなり完成に近づいています。
----場面やシークェンスはどのように分担していますか。
JC 朝、先に来た方がやるのです。わざわざ「あなたがこれをやって、私はこれをやろう」と決めることはありません。撮られ方によっては、連続する2~3の場面を同じ人が編集した方がうまくいくこともあるでしょう。しかし、そのような場合を除けば、先に来た方がやるという進め方をしています。多くの場合、編集者が二人いる映画を見ると、両者の異なる編集のやり方を判別できますが、ゲアリーと私はよく似ています。どの場面を誰が編集したかは私でないと分からないでしょう。
GR 結果として、私たちは『チェンジリング』と『グラン・トリノ』のそれぞれをほぼちょうど半分ずつ編集しました。この素晴らしい編集者と監督と同席した10年間を経て、ジョエルのスタイルやクリントの好むものが分かるようになりました。ある場面を私が編集し、その直後の場面を彼が編集するということができるのは、単に私たちのやり方に筋道立った決まりがないからです。私たちのスタイルはおのずと一致するのです。
----クリントが大幅な変更を加えることはありますか。
JC クリントのもとで33年以上仕事をしていますが、私が編集したのを彼がばらばらにしたシークェンスは実は一つしかありません。それも単に、その場面の女優がクロースアップを増やしてほしがったからでした。クリントが言うには、場面がうまくいきさえすれば従うべきルールなどないのです。私の唯一のルールは、二人の人物がいる場面で、想像上の180度線を決して越えないようにすることです。両者が同じ方向を見ている----例えば、両方がカメラから見て右を向いている----ように見えるのが好きではないからです。観客は二人の人物が互いを見つめ合っているところを見るべきだと強く思っています。
----二人ということで言えば、イーストウッド映画の最高の瞬間は多くがツーショットであるように思えます。
JC 私たちの編集方法ではあまりクロースアップに頼りません。すると編集者としてはマッチングが心配になるため、作業が難しくなります。しかし、クリントがショット間のマッチングのために俳優を制約することはありません。彼は40フィートのスクリーンなら40フィート分を活用したがるので、クリントの映画で非常に極端なクロースアップを見ることは滅多になく、あるとしてもよほど重要な理由があるときだけです。彼に言わせれば、場面の感情はより広いショットの中にある場合もあるのです。感情を伝える登場人物のボディ・ランゲージ全体が見えるからです。それは目だけにあるのではありません。
----『チェンジリング』で最終版に残らなかった部分はどのくらいあるのですか。
GR 最初のカットは3時間15分でしたが、物語を不要な領域へと進めていたシークェンスをカットすることで、最終的には2時間20分に縮めました。カナダの警察がノースコット(ジェイソン・バトラー・ハーナー)を逮捕しに来るところで、クリントはノースコットが一時的に逮捕を逃れる屋根の上の長い追跡シークェンスを撮影していました。そうすると追跡映画になってしまいますが、『チェンジリング』はそれが中心ではありません。削除されたもう一つのプロットは、クリスティーン(アンジェリーナ・ジョリー)が精神病院から帰宅すると、ロサンジェルス市警察が彼女に危害を加えると考えたグスタヴ・ブリーグレブ(ジョン・マルコヴィッチ)が、彼女を守るために男たちを連れて家に来るというシークェンスでした。
JC クリントは大局を見て「この場面は映画を先へ進めていないから、カットするほかない」と言います。自分の映画に出演している場合でも、自分をカットしてしまうことをためらいません。
----『グラン・トリノ』のことはどのようにして知ったのですか。
JC ゲアリーと私がカーメルのクリントが住んでいる場所の近くで『チェンジリング』を編集していると、彼がニック・シェンクの書いた『グラン・トリノ』の脚本を持ってきました。二人でその脚本を読み、私は「あなたのために書いたみたいな脚本だ」とクリントに言いました。彼にはその脚本がやや突飛に思われ、人々がどう反応するかがよく分からなかったようです。私は彼に、「あなたが単に登場人物を演じているだけだということを、人々は理解しないといけない。これは現実のあなたではないのだから」と言いました。実際のところ、人は彼をダーティハリーだと考えているかもしれませんが、彼は『マディソン郡の橋』(1995年)のロバート・キンケイドという人物の方に近く、とても心優しく大らかな人です。
----編集するのが最も難しかった場面はどこでしたか。どちらの映画でもかまいません。
JC 『チェンジリング』には、精神病院におけるクリスティーンとスティール医師(デニス・オヘア)の面接の場面があります。医師は机の前に座り、書類に目を通しながら鼻歌を歌っています。彼女は彼が退院させてくれるものと思っていますが、実際は彼女を打ちのめす準備をしているところです。この場面の編集はテンポ、タイミング、そしてカットの維持がすべてでした。映画の最後、サン・クェンティンでの絞首刑の場面では、音楽にも役割がありました。ノースコットが絞首台で「きよしこの夜」を歌っていて、「...mother and child」(母と子)という歌詞を口にしたところで落とし戸が開きます。私は素早くクリスティーンにカットし、再び彼にカットして落下を見せるようにしました。このような瞬間を見極め、特定の効果が出るよう布石を打ったうえで適切な場所に配置するのです。こうしたことは、編集者が行う人目につきにくい細かい作業です。
GR 『グラン・トリノ』には、床屋での素晴らしい場面があります。クリントと床屋の男が、モン族の少年タオ(ビー・ヴァン)に「本物の男」らしく人と冗談を飛ばし合う方法を教えようとする場面です。この場面は簡単ではありませんでした。とにかく会話が非常に多いうえ、場面に適切な感情のトーンが生まれるよう複数の間を作りたいと思ったからです。モン族の俳優たちに対するクリントの演出は見事でした。彼らは映画全体を通じて彼の役を取り囲んでおり、経験がほとんど、あるいはまったくない素人俳優たちから、彼は素晴らしい演技を引き出しました。
また、『チェンジリング』にはサンフォード(エディ・オルダーソン)が警察署にいて、近くに座る別の少年が定規で膝(原文では肩となっている)を叩いている場面があり、そこにワインヴィル農場でノースコットが子どもを切り刻む場面が挿入されます。私たちは普段なら短く素早い編集をあまり使いませんが、ここでは斧が振り下ろされる1秒のカットを複数使い、少年の膝(同上)に定規が当たるところや少年の両目へとカットする必要を感じました。また、Avid(映画編集に用いられるソフトウェア)を使って斧が振り下ろされる速度に変化もつけました。クリントが何と言うかまったく予想ができなかったのですが、彼はそれを見ると「ふーん、そうか」とだけ言って部屋を出て行きました。「最高の反応じゃないか」と思いましたが、彼は翌日やって来て「いや、気に入ったよ。一晩考えたかっただけだ」と言っていました。
----『チェンジリング』と『グラン・トリノ』を同時に編集していた時期もあったのですか。
JC 『チェンジリング』は『グラン・トリノ』の編集を始めた時点で基本的に完成しており、カンヌに持って行って上映できる段階にありました。
GR 『チェンジリング』のカットは撮影終了から1週間以内にできていました。『グラン・トリノ』では常に撮影にほぼ追いついている状態で、撮影終了の二日後にはカットができました。ワーナー・ブラザーズでは、ジョエルと私は別々の編集室を持っています。しかしカーメルに行くと同じ部屋にAvidの使えるコンピューターが2台あり、クリントは間の席で私たちが何をしているかを見て、加えたい変更を指示します。私たちは作業をとても迅速に終えていくのです。
----ジョエルさん、再びフィルムで編集を行うことはありえますか。
JC 私はできるかもしれませんが、現在の多くの編集者はもうフィルムを扱うトレーニングをしておらず、知識もありません。Avidは革命的なツールですが、私はコンピューター上でもムヴィオラ(フィルム編集に用いる機械)を使って編集するのと同じやり方で編集しています。マークイン(編集で使う部分の開始点をマークすること)を設定し、ショットの終わりまで見てからマークアウト(編集で使う部分の終了点をマークすること)を設定し、そのカットを挿入するのです。若い編集者たちは編集モードでカットをスライドさせるのに90%もの時間を費やしていると言うのですが、私は4〜5カットをつなぎ合わせて場面を再生してみてから初めてその作業をします。調整したいところがあれば調整しますが、私がカットのスライドに費やす時間は10%にもなりません。
----クリントは大量のフッテージを撮影するのですか。
JC クリントも私も、100万フィートも撮影する人がそのフィルムで何をするのかがよく分かりません。俳優たちに負担がかかり、演技の負担にもなります。クリントの俳優たちはよく練習をして現場に来ますし、彼の手法を理解しています。彼は、最初のテイクの演技には、5テイクあるいは20テイクを経れば失われてしまう生々しさがあると考えています。台詞をつっかえたり言い間違えたりしても、彼の気にするところではありません。だからクリントはルーピング(撮影終了後に、映像に合わせて台詞の一部を録音し直すこと)も好まないのです。現場で得られる環境音や声の抑揚・感情を再現することはできません。録音し直すくらいならその演技を使ってしまう方がよい、というのが彼の考えです。しかし彼はいつも、映画を編集するのに十分な量以上のフッテージを渡してくれます。
----音楽はどのように扱うのですか。
JC クリントも私も、音楽は映画を支えるためにあるものであって、登場人物の一人になるためではないと考えています。また、最初のフレームから最後のフレームまで音楽をかけ続ける必要はないという考えも共有しています。彼の作る映画はそういうスタイルではないのです。観客に強い情動を感じさせるために音楽を使わなければいけないのなら、その映画はそれ自体としてうまくいっていません。彼は観客を理解し、大人向けの映画を作っているのです。
GR クリントの頭の中にはメロディーがあり、彼はピアノの前に座ってそれを弾いてみせます。そしてどこかの段階で息子のカイルや編曲家のマイケル・スティーヴンズと一緒に作業を始めます。彼らは多くの素材を持ってきて、私たちでそれを取り込むと、ジョエルがいくつかのテーマを重ね合わせて手を加え、決まってクリントが気に入る劇伴を作り上げます。いちばん最後にオーケストレーターのレニー・ニーハウス(1929年〜2020年)が参加し、弦楽器やその他の編曲を書いて全体を完成させます。
----お二人の次のお仕事は何ですか。
JC クリントが3月に撮影を始める『The Human Factor』(のちに『インビクタス/負けざる者たち』の題で2009年に公開)です。アパルトヘイト廃止後の南アフリカ共和国で大統領を務めたネルソン・マンデラを、モーガン・フリーマンが演じます。
----現代の映画編集は、どこへ向かっていると思いますか。
JC 私が懸念していることの一つは、今日の映画がずっと若い観客向けに作られていて、非常に異なるスタイルで編集されていることです。そのことに反対はしません。しかし、映画は登場人物の目を通して見るものだと私は考えているので、これから何が起こるのかを登場人物がそれを目にする前に観客に垂れ込みたいとは思いません。書物のように、ページをめくるまでは何も分からないようになっているべきです。観客は壁に止まったハエのような存在であるべきだと思います。登場人物の物語であって、観客の物語ではないのです。
GR だからこそ、ジョエルと似たスタイルを持ち、同じリズムを共有できるのは私にとって重要なことです。ここでぜひ言っておきたいのですが、これまで私をそばで働かせてくれているジョエルは非常に寛大です。素晴らしい経験をさせてもらっていますし、非常にありがたく思います。
JC 私たちは「感情の達人」なのだと、私はよく言っています。それがクリントの映画の本質だからです。映画がすべてを語るので、私たちにはエゴがありません。この部屋では大きな芸術が生み出されており、私たちは世界で最も幸運な人間なのです。
An earlier version of this article originally appeared in CineMontage, a publication of Motion Picture Editors Guild, and was translated from English and reprinted by permission.