『すべての夜を思いだす』清原惟
結城秀勇
[ cinema ]
『ひとつのバガテル』『わたしたちの家』『すべての夜を思いだす』という3本の長編は、団地の中のひとつの部屋、一軒の家、それらを含んだ街というふうにだんだんと舞台が大きくなっていて、主人公というか主なエピソードの担い手の数が1、2、3と増えていく。でもそれを線的な成長や発展の結果なのだととらえたくはなくて、小さなものがより大きなものに置き換えられたのではなく、小さなものは小さなもののまま、その組み合わせの数が増えたのだと考えたい。『ひとつのバガテル』の団地はすでに、よく似た小さな部屋が集まった大きな集合体で、あき(青木悠里)が外を歩いているときにどこかから聞こえてくるピアノはどの部屋から鳴っているのかがわからないし、ひとつの部屋を満たす音や気配のようなものは、その部屋の中で鳴っているのか、その部屋とよく似た隣接する空間のものが伝播しているのか、それともほんとうは聞こえるはずのないはるか遠くのなにかがなぜか聞こえてしまったのか、よくわからない。『すべての夜を思いだす』が思いだすのは、ひとつひとつの(every)夜であって、巨大な夜全体ではない。
でも清原作品を見ていてたまにハッとするのは、SF的というか物理学的というか、すごくデカい話が突然挿入されることだ。『わたしたちの家』の夏樹(菊沢将憲)が話す、宇宙が暗いのは光がないからではなくて、反射する塵がないから光が見えないだけだという話。『すべての夜を思いだす』のいまのニュータウン(いまはもうニューじゃないけれど)は4500年前もニュータウンだったという話。さらに知珠(兵藤久美)が語る、半導体はほとんどシリコンでできていて、シリコンは地球上で2番目に多い物質だという話。じゃ1番はなんだろう?なんだろねえ......、とぼんやり終わるだけのこの会話も、SFの世界では定説である、もし宇宙にわれわれ(炭素型生命体)とまったく違う生命体が存在するとしたら、それはおそらくケイ素(Si=つまりシリコン)型生命体だろうという話を思い浮かべるなら、『すべての夜を思いだす』もまた『わたしたちの家』のように、すぐ裏に物言わぬ岩たちによるケイ素型生命体ver.『すべての夜を思いだす』と隣り合ってあるのかもしれない、などという妄想も成り立つ。そして、夏樹の見えない光の話がひとりの女性を形容するために語られた話だったことを思いだすなら、巨視的な次元のなにかと微視的な次元のなにかはとてもよく似ていることになる。4500年前の風呂上がりみたいな顔をした土偶がなぜつくられたのかはわからなくても、昨日の昼ご飯なにを食べたか思いだせないうっかりさんもいただろうと想像することはできる。セリ(河西和香)は彼女の家にあるぽてっとした花瓶に似ている。
昨日のトークで、清原監督が「小さい頃はミニチュア作家になろうと思っていた」と語っていたことが印象的だった。それは監督の作家性が、巨視的なスケールのものを微視的なスケールで忠実に作り直すその再現性にあるという意味ではなくて、もし『すべての夜を思いだす』が多摩ニュータウンのミニチュアなのだとしたら、その中のどこかの団地のどこかのひと部屋には清原少女が自らを含んだニュータウンのミニチュアをつくろうとしている光景があるのかもしれなくて、さらにそのミニチュアの中をよく見ればどこかに清原少女がミニチュアをつくろうとしている光景があるのかもしれなくて、さらにその......、という無限のレイヤーの、いったいどの層にこの映画が位置しているのかだれにもわからない、という意味において。
『これが星の歩き方』のデパートも、『網目をとおる すんでいる』のビー玉やボタンや小枝でつくられる川辺の景色も、巨大な世界が小さな空間に折りたたまれたミニチュアだと言えるのかもしれない。『ひとつのバガテル』の無数の果物や野菜が外部に露出したまま展示される八百屋の店頭も。そしてさらに妄想をたくましくするなら、引っ越しましたという旧友からの手紙を見つける知珠の背後のテレビに映っている囲碁の対局中継の白と黒の碁石の配置は、はるか遠くの星々の見える位置がちっぽけな人間の運勢を示すがごとく、彼女の一日を占っていたのかもしれない。そんなふうに清原作品の人やものや景色は、極大と極小の世界をいったりきたりする。繁茂する木の枝や雪の結晶、海岸線の地形が、細部をどこまで拡大していっても、より大きな部分と相似的なパターンを繰り返すように。全体は部分であり、部分は全体である。
そう仮定したときにはじめて、清原作品における記憶とものの特殊な関わりが見えてくる気がする。記憶がものと結びついてだれかに継承されることがある(部屋の所有者をすっとばして、かつての持ち主からあきへ譲られるピアノ)。しかしその継承が所有権の正当性を保証することは稀で、むしろこう言ってよければ、記憶と結びついたものは間違っただれかに届くことが多い。さな(大沢まりを)の失われた記憶に結びついていたはずのプレゼントはどこかへいってしまう。かつてニュータウンに暮らした無数の子供たちへの誕生の祝福を受けとるのは、彼ら自身ではなくて写真屋の男だ。そして本来であれば継承の正当性を強く主張できるはずの記憶を、テキストや他者の身体を借りて、誰のものでもない女たちの家の記憶のようなものへと織り上げていくのが『A Window of Memories』だと思う。
4500年後にさ、大がいたこと誰か覚えてるのかな。土偶もないし、消えちゃってるかもね、花火も煙になってるし。そんなやりとりの後で、いなくなってしまった人が残した写真には、彼自身は映っていなくても、彼のことを思いだす人は映っている。そのことに、その日、別のイベントで聞いた、シャンタル・アケルマンが語った「わたしはどこにも属さない」という言葉を思いだす。さらに、ライナー・ヴェルナー・ファスビンダーが『13回の新月のある年に』で引用する、モーリス・ピアラ『一緒に年をとるわけじゃない』の「いま、人生はすばらしい。でも、ぼくの居場所がない」というセリフを思いだす。それらの悲しくさびしい言葉たちの芯にある、ゆるぎない願いや希望、欲望を聞きとる。
それがインタビューのリード文に「彼女たちが自分の孤独をないがしろにはしていないということでもある」と書いた理由である気がしている。プレゼントが見当たらないと言うさなに、透子(藤原芽生)は「どこかにあるよ」と言う。そしてそれはほんとうにどこかにある。すれ違っただけの、ちょっと話しただけの人たちが、後ろ姿を見送ってくれたことを、本人は気づいてなくても観客は知っている。
こんな世界で、だれかとつながるということは、簡単に線引きしてその内側と外側にわけることでは絶対ないだろうと思う。内側の内側の内側の内側の......、そうやってもうどこにいるのかさえわからなくなった自分の、その孤独をないがしろにしない、それしかないのだと思う。
「清原惟監督特集 七つの合図、夢のなかで」Bunkamura渋谷宮下にて1/30まで