『映画を愛する君へ』 アルノー・デプレシャン インタビュー
[ cinema ]
ポール・デダリュスがアルノー・デプレシャンの分身のような存在であることは、彼の映画を見てきた観客であれば知っていることだ。ポールとアルノーは同じように恋愛をし、同じように歳をとってきた。とはいえ、これまでポールが映画監督になったことはないし、デプレシャンはこの登場人物を映画の道へ近づけようとはしなかった。そうした意味で最新作『映画を愛する君へ』では、ポールは映画にどっぷり浸り、今までにないほどデプレシャンへ近づいていく。もしかしたら世界の拡がりを閉じてしまうような危うい試みといえるかもしれない二人の距離の喪失は、本作にどのような影響を与えたのだろうか。
──11章それぞれがかなり広大なテーマで、どれか一つだけを選んでも映画が一本撮れたように思いますが、なぜそれらすべてを一本の映画に詰め込もうと考えたのでしょうか?
アルノー・デプレシャン(以下AD) 映画の見方は一つではなく、愛した方も一つではありません。数限りない接し方、愛し方があります。それらを表現するために、この作品を「映画の家」として作り、皆さんがその家を訪れるようにしました。家にはさまざまな部屋があります。たとえばリビングがあり、書斎があり、屋根裏があったりします。観客たちはそれぞれの部屋で自分自身を見出すのです。身近に感じることができる部屋もあれば、あまり行かない部屋もある。たとえば「恋愛」の章で取り上げた『ノッティングヒルの恋人』(ロジャー・ミッシェル、1999年)は誰もが知っている映画、部屋でしょう。
──順番に読み進める映画の理論の本を読むというよりも、雑誌のようにパラパラと自由にめくって、いろいろなテーマに出会うことができる、そんな印象も受けました。
AD 映画理論の本であるよりも、成長譚の小説のような作品になっているのではないかと思います。異なる世代のポール・デダリュスが異なる姿で現れ、それらは異なる映画のパースペクティブであり、映画についての雑多な、無秩序な考えを示しています。私は理論家ではなく、むしろ自分の無秩序な考えを誇りに思っているのです。
──それでも入りきらなかったテーマはありますか?
AD 一つだけカットしたシーンがあって、それは私の師である映画批評家ジャン・ドゥーシェに関わる部分です。私の人生において映画の批評を読むことは非常に大事なことではある。ただ批評に関わる場面を入れてしまうと、特定の映画を理解できる観客とそうでない観客を生んでしまう。この映画においては、すべての人にとって映画が平等であることを示したかったので、このシーンは入れるべきではないという考えに至りました。
──その一方で、大々的に引用されているスタンリー・カヴェルの言説は、映画をわかる人とわからない人には分断しないということでしょうか?
AD ええ、カヴェルは批評家ではなく、哲学者です。哲学というのは万人にとって平等で、哲学を介して映画にアクセスすることは、批評と比べてとてもシンプルなことだと思います。
──そのようにみんなにとって平等な映画を語りつつ、監督の個人的な映画との関わりも語ることは難しい試みだったのではないでしょうか?
AD いえ、制作中はむしろ喜びに身を任せることにしていました。たとえば若い俳優たちとの出会いも喜びでした。何より10年、20年と私の頭の中を駆け巡ってきた映画についての考えを、ようやく見せることができた。「スペクタクルに対する渇望、スペクタクルとして約束された世界...他者の顔を認識すること...映画は見せるのか、隠すのか、それとも明らかにするのか?」、これらすべてを映像で、この作品の中で広げて見せることができたのです。この映画を通して、はじめてそうした映画の書き手(érivain)になれたという気持ちでいます。
──言葉ではなく、映像で語ることによってそれまで監督が持っていた映画についての考え方は変わりましたか?
AD 6章でミスティ・アッパムを想起するとき、モンローを思い浮かべるべきだと私は書き留めてはいたのですが、編集テーブルの上で二人のイメージに直面したときの衝撃はとても大きかった。突然、私の目の前で、世界で最も有名な女優と、アメリカ映画で最も影に隠れて、知られないままでいた女優、その二人の傷ついた子供時代というものをまざまざと思い知らされたようでした。私は自分が書いたことの真相を知らなかったのです。『シャイアン』(ジョン・フォード、1964年)の居留地から、そして『エグザイル』(ケント・マッケンジー、1961年)のロサンゼルスのネイティブアメリカンたちへ。ミスティは片足を居留地に、片足はロサンゼルスに置き、生きることの苦しみを抱いていた。そう、映像による証言が私に教えてくました。
あるいは、10章でショシャナ・フェルマンに取材を行う場面は予定していましたが、自分が出演することは想定していませんでした。テルアビブに着いた時、いつかこの映画をテレビで見ることになるかもしれない16〜18歳くらいの観客に向けて撮ろうと考えました。彼ら、彼女らは9時間25分もある『SHOAH ショア』(クロード・ランズマン、1985年)を見ていないけれど、それほど知られていないイスラエル人の哲学者の話を聞く。ただ徐々に、彼女の言説を分かってほしいというよりも、私のような年齢の異国の男が彼女の文章を読んでから30年を経て、やっと本人伝えることができた感謝の念や、それに対する彼女の反応、表情こそを見てほしいと思うようになっていったのです。
──ショシャナ・フェルマンへのインタビューはかなり映画が出来上がった段階で撮られた場面なのではないでしょうか?
AD そうです。ほとんど最後に撮影した部分です。この映画全体がロマネスク小説のような、ある種の旅のような趣があると考えていたので、まずテルアビブに行って、その次にニューヨークのケント・ジョーンズに会いに行きました。それが撮影最終日でした。
──ということは監督本人が登場するラストは、この二つの場面であなたが急遽出演することになったからそうなったのではなく、あらかじ脚本にあったのですね?
AD ええ。最後に私がポール・デダリュスとなって終わることは決めていました。私が一番年老いたポール・デダリュスです。
──ショシャナとの場面は、そうした映画の目的により近づくことを可能にした出来事だったと。
AD はい。私はショシャナと会ったことがなく、30歳になるかならないかの時に、彼女のテクストを読んで助けられました。映画を通して、30年近く前に読んだこのテクストへの感謝の気持ちをようやく彼女に伝えられると思ったのです。
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