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February 1, 2025

『ブラックバード、ブラックベリー、私は私。』エレネ・ナヴェリアニ
浅井美咲

[ cinema ]

BBB_sub2.jpg 主人公エテロ(エカ・チャヴレイシュヴィリ)の裸体がたびたびキャメラに映し出される。それは、映画序盤で突発的に関係を持つムルマン(テミコ・チチナゼ)とのセックスの際だったり、シャワーを浴びるシーンだったりするが、キャメラはエテロの肌に寄ることはなく、距離を保って引きの位置から彼女を撮影するので、肌の細部というよりは、その体のラインを目にすることになる。エテロは村の女性たちから「尻がたらいみたい」と馬鹿にされるが、そんな軽口を言えるのは、きっと彼女たちが服を着たエテロの姿しか見たことがないからだ。だって、服を脱いで顕になるエテロの体は、目を見張るほど複雑なラインを携えている。鎖骨は肉に埋もれながらも僅かに窪み、その下には垂れて張り付いたような胸がある。豊かな贅肉は骨盤のラインに沿うように弛みながら張り出していて、張ったふくらはぎの下にキュッと引き締まった足首がある。寝転んでみると、重力に引っ張られてそのラインがまた変化する。エテロが持つ骨格や筋肉の上に乗った脂肪は年月をかけて自在に変化し、今の彼女の体を作り上げたのだ。ロングショットや、時にミディアムショットで映されるその複雑な造形は、観客から美醜の判断がなされることを拒むように「ただそこにある」ことを実践しながら、そのまま映画で語られる彼女の人生と重なっているように思う。
 ジョージアの小さな村で日用品店を営みながら一人で暮らすエテロは、谷に行ってブラックベリーを摘んだり、本を読んだりといった一人の暮らしを愛している。ムルマンと関係を持ち、48歳にして処女を喪失した彼女はその後もムルマンとの逢瀬を重ねるが、エテロは彼との恋に溺れていくかと思いきや、絶妙に溺れて"いかない"(むしろ恋に盲目になるのはムルマンの方だ)。エテロの店で初めて関係を持ったあと、二人は乱れた服を直さないまま、エテロがムルマンに膝枕をするような形でまどろむ。しかし、突然大きな雷が鳴ると、エテロはその拍子にパッと立ち上がってドアを閉めに行ってしまい、二人のまどろみの時間はスイッチが切れたみたいに終わる。また、ムルマンがトラック運転手の仕事を得たため、しばらく会えないということを伝えに来た際、彼はエテロの手を握り「戻ったら抱きしめにくる」と伝えるが、繋がれた手をパッと放し、この場の別れを促すのは彼女の方だ。エテロとムルマンの逢瀬のシーンは、二人が別れ、ドアが彼らを隔てるまで映されることが印象的であり、別れをそれとなく誘導するのはおおよそエテロである。
 (ムルマンと恋仲にあることを知らない)村の女性たちから「あなたは男の愛を知らない」と貶される時、エテロは「一人で生きていける」と応戦し、「閉経したら店を閉めて自由に暮らすんだ」と口にする。それは、咄嗟の反論だったかもしれないけれど、一人で生きていきたいと願う彼女が温め続けた人生設計でもあったはずだ。死別した父や兄に長年家政婦のように扱われてきたことや、彼らに偏見混じりの貞操観念を植え付けられたことが、彼女に信念を与えたのだろうと連想するのは簡単だ。しかし、それよりは、ブラックベリーを摘んでジャムを作るのが好きなことや、カフェではナポレオンパイとミルクコーヒーを注文すること、一人で生きていきたいという願いはエテロが価値を見出してきたひとつのものの延長線上にある「彼女らしさ」だと言いたい。でも、彼女の生活に恋が侵入してきた。一人で生きることと、「私は目覚め、生きていると実感した」と言わしめるほどの恋とセックスに身を焦がす刹那な衝動は、時に心の中で逡巡を生み、揺さぶりをかけるだろう。だからエテロはハッと現実に引き戻されたように、ムルマンとの逢瀬を自ら終えようとするのだ。
 エテロの人生に突然現れるのは、恋だけではない。映画終盤、不正出血や生理不順など、体調に変化があったエテロは子宮がんを疑い、一人で街の病院に行き診察を受けるが、予想とは異なる結果が待っていた。診察を終えたあと、こぎれいなカフェでナポレオンパイとミルクコーヒーを頼んで席に着く彼女を、キャメラは横から捉える。そのままキャメラが正面に回り込むと、エテロはクリアファイルに挟まれたある紙を取り出し、声を漏らしながら泣く(この時、キャメラが正面に回り込んだことで、嗚咽を漏らす彼女をチラチラと見る客が背後に映り込むのがなんとも憎い)。この涙を見た時、一体どんな感情の表出なのか、悲しいのか嬉しいのかすらあまりわからずに戸惑った。普段はペドロ・コスタ『ヴィタリナ』(2019)のヴィタリナのように低く、重く、ざらついた声で話すエテロだが、彼女の声とは思えないほど高く、細い泣き声。そして、不思議と連想したのはメーサーロシュ・マールタ『ナイン・マンス』(1976)の主人公ユリが終盤のあるシーンで見せる表情だった。大仕事を終えた彼女の顔に喜びはなく、何かが「はじまってしまった」とでも言うような呆然とした表情を見せる。
 エテロにおける「一人で生きる」という生き方とユリにおける自身のキャリア、彼女たちはともに自分が今後の人生で大切にしていきたいものがある状況で、その中断を余儀なくされたり、舵を大きく切らねばならないことになる。だからこそエテロが最後に流した涙とは、突然身に降りかかった出来事の大きさに立ちすくむような涙だっただろう。嬉しいとか悲しいとか、何かはっきりとした感情が生まれる前の、何もわからないまま何かを決意しろと迫られた時に流れる涙。最後にエテロに与えられた運命に、なんてこの映画は手厳しいんだと思いながら、でも、世界のあらゆる場所で人知れず流れたであろう涙をスクリーンの上に描き出したというだけで、この映画を見る価値がある、と思ったりもしたのだ。

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